池田輝興
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池田 輝興(いけだ てるおき)は、江戸時代の大名。播磨平福藩主。播磨赤穂藩の第2代藩主。
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時代 | 江戸時代前期 | |||
生誕 | 慶長16年1月15日(1611年2月27日) | |||
死没 | 正保4年5月17日(1647年6月19日) | |||
別名 | 古七郎(幼名)、松平輝興(別名) | |||
戒名 | 少林寺殿松巌英秀大居士 | |||
官位 | 従五位下、従四位下、右近大夫 | |||
藩 | 播磨平福藩主→播磨赤穂藩主 | |||
氏族 | 池田氏 | |||
父母 | 父:池田輝政、 母:徳川家康の次女・督姫 |
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兄弟 | 池田利隆、池田忠継、池田忠雄、 池田輝澄、池田政綱、池田輝興 |
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妻 | 正室:黒田長政の娘 | |||
子 | 2男1女(娘(黒田之勝室)ほか) |
慶長16年(1611年)1月15日、播磨姫路藩主・池田輝政の六男として姫路城で生まれる。母は徳川家康の次女・督姫であるから、輝興は家康の外孫に当たるため、松平姓を与えられた。元和元年(1615年)に岡山藩主だった兄の忠継が死去したため、その遺領から佐用郡など2万5,000石を分与されて、平福藩主となった。しかし幼少だったため、実際の藩政は家臣団によって行なわれていたという。
寛永3年(1626年)8月19日、従五位下、右近大夫に叙任する。そして成長した輝興は、様々な法令を出して民政安定化に尽力するなど、藩政に手腕を見せた。寛永8年(1631年)、赤穂藩主だった兄の政綱が継嗣無くして死去すると、赤穂藩の池田氏は一時的に改易されたが、家康の外孫に当たるということから、幕命で特別に輝興が1万石加増の3万5,000石で赤穂藩主となることを許されて、赤穂藩主となった。
赤穂藩の藩政においては、検地や城下町の開発などを行なったが、特に上水道の開発に功績を挙げている。ちなみに輝興が行なった上水道開発は、日本初の水道工事とまで言われており、これは後の浅野氏時代に完成することとなった。寛永11年(1634年)には従四位下を叙任する。
ところが正保2年(1645年)3月15日、突如として発狂した輝興は、正室をはじめ侍女数人を斬り殺すという騒動を起こしたため、3月20日に改易され、その身柄は甥で岡山藩主だった池田光政預かりとなった。そして正保4年(1647年)5月17日、罪人のまま岡山で死去した。享年37。
墓所:岡山県岡山市国富の少林寺。のち、岡山県備前市の和意谷池田家墓所に改葬された。
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