池禅尼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
池禅尼(いけのぜんに、長治元年(1104年)? - 長寛2年(1164年)?)は、平忠盛の妻。平清盛の継母に当たる。後に崇徳天皇の皇子重仁親王の乳母となる。父は藤原宗兼、母は藤原有信の娘。名は宗子。
忠盛と結婚し、その間に平家盛、平頼盛という清盛とは腹違いの男児を産んでいる。1153年、夫が死去すると出家し、六波羅の池殿で暮らしたことから池禅尼と呼ばれた。1159年の平治の乱で敗れた源氏の源頼朝が処刑されそうになったとき、清盛に対して亡き我が子・家盛によく似ているということから助命を嘆願した。清盛ははじめは拒絶したが、後に池禅尼が断食をし始めたため、遂に伊豆への流罪へと減刑したと言われている。その後、池禅尼は死去したと言われているが、正確な没年は不明である。
この池禅尼の恩を頼朝は忘れず、後に彼女の息子である頼盛の系統だけは、平氏滅亡後も存続を許した。