沖縄人民党
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沖縄人民党(おきなわじんみんとう)とは、アメリカ施政下に存在した沖縄県独自の地域政党である。沖縄本土復帰運動では、重要な役割をはたした。
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[編集] 沿革
[編集] 結党とアメリカ支配への抵抗
沖縄には、1945年の沖縄戦により米軍が進駐し、1952年発効のサンフランシスコ講和条約によって、引き続きアメリカの支配下におかれることになった。そうした状況の下、1947年7月20日、石川市(現・うるま市)大洋初等学校において、沖縄人民党は結成された。初代委員長浦崎康華。占領支配に一貫して反対し、果敢に復帰運動を推進したために、しばしば激しい弾圧と監視を受けた。アメリカと琉球政府は、人民党と日本共産党との関係を問題視し、非合法化を画策した。1954年には書記長瀬長亀次郎ら幹部2人と党員28人が逮捕される「人民党事件」が起こった。瀬長は1956年那覇市長に当選したが、その地位を1年あまりで追放されている。沖縄社会大衆党とは比較的近く、しばしば共闘関係を結んだ。1970年の国政参加選挙では、瀬長が衆議院沖縄全県区で当選した。
[編集] 日本共産党への合流
沖縄返還後も屋良朝苗知事の与党であったが、1973年10月31日の第18回党大会で日本共産党への組織的合流を決議、委員長であった瀬長は、共産党幹部会副委員長となり、書記長古堅実吉も瀬長の引退をうけて共産党の衆院議員を務めた。共産党沖縄県委員長は党中央の幹部会委員を併任するのが慣例となっている(なお、古堅の後任赤嶺政賢に人民党の党歴はない)。
[編集] 理念
- 当初は、左右を問わず広範な人々が結集していた。政治・経済・社会の全分野における民主主義を確立することを標榜し、やがて科学的社会主義政党となる。近年では、日本共産党の指導を受ける非合法の沖縄共産党が、人民党の背後にあったことがわかっている。これはアメリカ占領下での共産主義政党の存在が禁止されていたからである。
- 結党当時は「全沖縄民族の解放」を謳い、米軍に対する感謝決議すら行っていたが、1949年10月の党大会で「自主沖縄の再建」と改められ、やがて1951年4月、本土復帰方針に変わっていく。
[編集] 文献
- 『沖縄人民党の歴史』(沖縄人民党史編集刊行委員会〔編集/発行〕、1985年11月)
[編集] 関連項目
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