沢本頼雄
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沢本 頼雄(さわもとよりお、明治19年(1886年)11月15日 - 昭和40年(1965年)6月29日)は、日本の軍人。海兵36期、海軍大学校17期。最終階級は海軍大将。山口県出身。兵学校の同期生に真珠湾攻撃の機動部隊指揮官だった南雲忠一中将(死後大将)、戦艦陸奥爆沈時の第一艦隊司令長官だった清水光美中将などがいる。
軽巡天龍艦長、軍務局一課長、重巡高雄艦長、戦艦日向艦長、艦政本部総務部長、練習艦隊司令官、第二遣支艦隊司令長官などを歴任し、昭和16年(1941年)4月4日、及川古志郎海軍大臣の海軍次官に就任する。
沢本は日米開戦に対して反対であり、第3次近衞内閣が総辞職し東条内閣が成立する際に、及川古志郎は後任の海相として豊田副武を推薦した。しかし豊田の陸軍嫌いは陸軍側に周知のことであり、陸軍は当然としてこれを拒否、沢本はこれを好機として内閣の流産を期待したが嶋田繁太郎が海相に就任してしまう。
日米開戦の決定についても、次官として開戦は承服しかねる、自信がないので次官を辞めさせてほしいと嶋田に頼むが、嶋田が沢本の大将昇進、連合艦隊司令長官への就任をちらつかせたために翻意してしまう。これに関しては沢本も後年非常に悔いていた。
沢本は海軍次官に留まり、昭和19年(1944年)3月1日に大将昇進で軍事参議官兼海軍次官事務取扱になり、昭和19年(1944年)7月17日に呉鎮守府司令長官、昭和20年(1945年) 5月1日に軍事参議官となり、そのまま終戦を迎えた。
戦後は、水交会会長を務めた。