河野通有
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
河野通有(こうの みちあり 建長元年(1250年) - ?)は鎌倉時代の武士。河野氏当主。元寇の役で活躍した伊予水軍の将。
1281年の弘安の役では小船を使った夜間襲撃で、朝鮮の将を討ち取った。この際、河野水軍は、博多の海岸に陣を敷くが、有名な博多の石垣の前方にある砂浜で布陣したため、島津氏をはじめとする九州の諸将から、河野水軍の後築地と呼ばれ一目置かれた。水際陣地にこもり、防戦一方の日本武士団のなかで、海上に討って出て戦果を上げた数少ない侍である。河野家中興の祖とも呼ばれる。 風早郡(松山市北条)の双子山城に勢力を置き、また六波羅探題の命を受け、伊予国の海上警備の任に当たっていた。
元寇の際の様子を竹崎季長が描かせた蒙古襲来絵詞にもその姿が見られる。