洲崎球場
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洲崎球場(すざききゅうじょう)とは、現在の東京都江東区新砂一丁目1番付近に戦前所在した野球場。
あまりにも周囲が変貌したためか、長年正確な所在位置の特定が困難となっていた。『野球小僧』の企画で関係者が図書館などで調べ大体の位置が分かったらしく、この記事などの後押しなどで、ようやく江東区役所が、2005年2月に江東区新砂一丁目2番8号付近に記念碑を建てた。
プロ野球草創期、上井草球場と共に東京地区のプロ野球常打ち球場の一つとなっていた。一応、大東京軍の本拠地球場として建設されたが、実際は当時フランチャイズ制が敷かれていなかった事もあり、巨人軍もよく試合をしていた。
海の側にありカニが這いずり回わっていたといわれ、グラウンドが海水につかってコールドゲームになることもしばしばあり、環境的に良くなかったため、水道橋に後楽園スタヂアムができるとその座を追われた。近くに洲崎遊郭(洲崎パラダイス)があり、プロ野球選手も試合後などに良く通っていたと言われる。
洲崎球場で行われた試合の中では、1936年の巨人vs大阪タイガースの優勝決定戦は語り草になっている。また1937年7月17日のイーグルス対金鯱戦は観客僅か90人だったといわれ、ワースト記録として、今なおプロ野球史に残るとされる。
1936年10月に3ヶ月の突貫工事で完成し、翌1937年には92試合もの試合が開催されたが、前述のように後楽園球場が出来ると翌年1938年には僅か3試合の開催と激減した。解体したのはいつなのかもはっきり分かっていない。1945年終戦年の地図には既に記載は無く材木置場となっていたそうで、その後敷地の一部が帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄)に譲渡された。
[編集] 所在地について
- 洲崎遊廓が近所にあり、隣接地にあったと誤解されがちであるが、実際は幾分離れた場所にあった。
なお、大下弘選手の追悼文で「選手達が球場入りするとき、彼が遊廓の二階から手を振っているのが見えた」との記述があるが、時代考証からいって間違いであろう。
- 当時市電(東京都電)に乗って見に行ったとの記述がいくつかの文章で見られる。このことから、当球場は市電沿線に存在していた事が判る。また、最寄り停留所は洲崎電停ではなく、上記の所在地から東陽公園前電停(現在の東京メトロ東西線東陽町駅の位置)である。
- また多くの記述で、埋め立て地にあったとされている。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- あの頃こんな球場があった、佐野正幸著、草思社、2006年
前本拠地: n/a - |
大東京軍・ライオン軍・朝日軍・ パシフィック・太陽ロビンスの本拠地 1936 - ? |
次本拠地: 西宮球場 1948 - 1949 |