湛増
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湛増(たんぞう 大治5年(1130年)ー建久9年(1198年))は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した熊野三山の社僧で,21代熊野別当でもある。18代熊野別当湛快の次子。源為義の娘であるたつたはらの女房(鳥居禅尼)は湛増の妻の母。武蔵坊弁慶の父と伝えられるが、伝承のみで確証はない。
1159年の平治の乱では、父湛快が平氏方につき、平氏から多大の恩顧を受ける。 1180年の治承・寿永の乱でも、当初、湛増は平氏方につき、源行家の動向を平家に報告して以仁王の挙兵を知らせた。また、配下の田辺勢・本宮勢を率い、新宮で源行家の甥に当たる範誉・行快・範快らが率いる源氏方の新宮勢や那智勢と戦ったが、敗退した(『平家物語』)。
1180年10月、源頼朝の挙兵を知り、新宮・那智と宥和を図るとともに,熊野三山支配領域からの新宮別当家出身の行命や自分の弟湛覚の追放を策し,源氏方に付く(『玉葉』)。
1181年1月、源氏方が南海(東海道沖)を周り、京都に入ろうとした為、平家方の伊豆江四郎が志摩国を警護することとなる。これを熊野山の衆徒が撃破し、伊豆江四郎を伊勢に敗走させたが、大将を傷つけられたため退却する(『吾妻鏡』第二巻熊野海賊菜切攻め)。
1184年10月、21代熊野別当に補任される(「僧綱補任宮内庁書陵本」)。
源氏・平氏双方より助力を請われた湛増は、源氏につくべきか、平氏につくべきかを田辺の宮(現在の田辺市にある闘雞神社)で紅白の闘鶏を行い神慮を占ったとされる(『平家物語』)。
1185年,義経の「引汲」によって平氏追討使に任命された湛増は,200余艘(一説では300艘ともいう)の軍船に乗った熊野水軍勢2000人(一説では3000人ともいう)を率い,て平氏と戦い、当初から源氏方として壇ノ浦の戦いに参加し,河野水軍・三浦水軍らとともに,平氏方の阿波水軍や松浦水軍などと戦い,源氏の勝利に貢献する(『平家物語』)。
1186年,熊野別当知行の上総国畔蒜庄領家職を源頼朝から改めて認められる(『吾妻鏡』)。
1187年,法印に叙せられ,改めて正式に熊野別当に補任される。
1194年,上京していた鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝と対面し,頼朝の嫡男源頼家に甲を献じ,積年の罪を赦される。
1198年に死去。享年69。極位は法印権大僧都。