源朝長
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源 朝長(みなもと の ともなが 1143年(康治2年) - 1160年2月8日(平治元年12月29日)) は平安時代末期の武将。源義朝の次男。母は波多野義通の妹。ただし、母は実は遊女で、波多野氏の養女とされたという説もあり。中宮大夫進。相模国松田郷を領して「松田冠者」と号す。
平治の乱に父の義朝、兄の源義平、弟の源頼朝とともに参戦。敗れて、父や兄弟と共に東国に落ち延びようとするが、途中落ち武者狩りに遭い負傷する。その後、一行は美濃国青墓の宿に着く。
再起のために義平とともに信濃国、甲斐国の源氏を集めるよう義朝に命じられ信濃へ向かうが、傷が深く青墓の宿に引きかえす。平家に捕らわれる事を嫌った朝長は父の手で殺されることを望み、父により三度刺され首を取られ果てた。
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- 史料