源義朝
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時代 | 平安時代末期 | |||
生誕 | 保安4年(1123年) | |||
死没 | 永暦元年1月3日(1160年2月11日) | |||
改名 | ? | |||
別名 | ? | |||
神号 | ? | |||
戒名 | 勝定寿院 | |||
官位 | 従四位下、左馬頭、播磨守、下野守、 贈内大臣 |
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氏族 | 清和源氏為義流河内源氏 | |||
父母 | 為義、藤原忠清娘 | |||
兄弟 | 義朝、義賢、義憲、頼賢、頼仲、 為宗、為成、為朝、為仲、行家 |
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妻 | 藤原季範娘、常盤御前 | |||
子 | 義平、朝長、頼朝、義門、希義、 範頼、全成、義円、義経、 一条能保妻、江口腹御娘、夜叉御前 |
源義朝(みなもとのよしとも は、平安時代末期の河内源氏の武将。源為義の長男。母は藤原忠清の娘。義平・朝長・頼朝・義門・希義・範頼・全成・義円・義経らの父。左馬頭、下野守、播磨守。後に贈内大臣。生前、下野守の任にあったことから下野守、また平治の乱にて左馬頭に任ぜられたことから、頭ノ殿と尊称された。
目次 |
[編集] 生涯
京都生まれで幼少期を京都で過ごすが、少年期に東国(関東地方)に下向し、上総介氏等の庇護を受け、同地で成長した。そのため父とは別に東国を根拠地に独自に勢力を伸ばし、相馬御厨、大庭御厨などの支配権をめぐって、在地豪族間の争いに介入し、その結果、三浦義明、大庭景義ら有力な在地豪族を傘下に収める。河内源氏の主要基盤が東国(関東)となったのはこの義朝の代であり、特に高祖父の源頼義以来ゆかりのある鎌倉を中心とする相模国一帯に強い基盤を持った。しかし、義朝の勢力伸張は関東の他の源氏、特に下野国の足利に本拠を置く義朝の大叔父源義国の勢力と武蔵国などで競合することとなり緊張を生んだ。その両者の緊張は、義国の指揮下にいた叔父源経国が仲介し、義国と義朝が同盟を締結し、盟友となることで解消され、両者の勢力を保持した。
その後上洛し、義国の子の源義康(足利義康)と義朝は親しくなり、義国・義康父子と義朝は強い連携を強めることとなる。
そして義康とともに義朝は鳥羽院や藤原忠通にも接近、1153年には下野守に任じられる。下野守となった義朝と在地の領主である源義国の結縁はこの時期にさらに強固になった。
その一方で、父為義との関係は義朝が為義を慕ったものの、為義は冷ややかであった。また弟達とは不仲だったようだ。一説によれば、義朝が幼少期に河内源氏の本拠地の河内国のある畿内を離れ東国に下ったのは、父の為義から廃摘に近い感じで勘当されたためではないかとされる。そのため義朝の東国での動きを牽制するために遣わされたのが弟の源義賢であるといわれる。
1155年、父の為義の意向を受けて東国に下向し勢力を伸ばしていた弟義賢を子の義平に討たせる。この為にもう一人の弟頼賢が復仇のため信濃に下り、頼賢と合戦になりかける。
[編集] 保元の乱
1156年の保元の乱の際に崇徳上皇方の父為義、弟の頼賢・為朝らと袂を分かち、平清盛と共に後白河天皇方として戦い勝利する。乱後、左馬頭に任じられる。しかし、義朝の戦功に代えての助命嘆願にもかかわらず為義・頼賢ら親兄弟の多くが処刑され、更に論功行賞でも清盛より低い官位に甘んじたことから大いに不満を持った。
[編集] 平治の乱
その後も後白河院の信任厚い藤原信西からあからさまな冷遇(縁組の要請を、「公家だから武家とは縁組したくない」と拒否しながら、同じ武家である平家と縁組したことなど)を受けて、同じく信西を憎む藤原信頼に接近する。1159年、義朝は信頼と図って藤原信西・平清盛・重盛父子を滅ぼし政権を奪取しようとして挙兵。平治の乱となり、一時は都を占拠して藤原信頼が右大臣・右大将を兼任(大臣大将)し、義朝も播磨守に叙任されるが、謀略によって二条天皇を奪還した清盛が次第に形勢を有利にし、武運尽きた義朝軍はついに壊滅する。
その後、藤原信頼を見捨て長男義平、次男朝長、三男頼朝、一族の源義隆(陸奥六郎義隆)、源義信(平賀義信)、源重成(佐渡重成)、家臣の鎌田政清、斉藤実盛、渋谷金王丸らを伴い、東国で勢力挽回を図るべく東海道を下る。その途上、たび重なる落武者狩りの襲撃を受け、朝長、義隆、重成は深手を負い亡くなる。また、頼朝ははぐれて捕らえられ、義平は北陸道を目指して離脱し、京に戻り、潜伏して、生き残っていた義朝の郎党の志内景澄と共に報復のため平清盛暗殺を試みるが失敗する。
義朝は尾張国にたどり着き、宿をとるため家来の長田忠致のもとに身を寄せるが、恩賞目当てで裏切った長田父子に入浴中に襲撃されてあえない最期を遂げた。享年38であった(後年、鎌倉時代になり、将軍の父に狼藉を働き殺害した罪をとがめられ、長田一族は処刑される)。
義朝の墓は、その終焉の地である愛知県美浜町の野間大坊の境内に存在する。
[編集] 関連人物
- 源義家 義朝の曽祖父。八幡太郎義家と呼ばれ、河内源氏が武家の棟梁となる基礎を築く。
- 源為義 義朝の父。義親の六男。父義親が流罪になったため叔父源義忠の養子となり河内源氏の棟梁を継ぐ。保元の乱当時は、義朝に家督を譲っていた(一説に義朝を勘当し、四男の頼賢に家督を譲っていたともいう)。
- 源義賢 義朝の次弟。父の為義と対立的な兄の義朝に対して「為義派」として関東に下り、新たな勢力基盤の形成を画る。そのため義朝の長男義平に討たれる。源義仲(木曽義仲)の父。
- 源義憲 義朝の三弟。志田三郎義憲。兄義賢とともに関東に下向。常陸国に本拠を置き、義賢とともに義朝の勢力圏を脅かす。別名:義広。保元の乱、平治の乱には不参加。甥の頼朝挙兵の時は頼朝を格下と見て、頼朝と敵対。
- 源頼賢 義朝の四弟。兄義朝と為義の決別後、父為義に頼りにされ保元の乱で一戦交える。
- 源為朝 義朝の八弟。鎮西八郎為朝。数多い義朝の兄弟の中でも一番の豪傑。九州に勢力を持つが保元の乱に呼び戻され義朝・清盛と一戦交える。
- 源行家 義朝の十弟。初名・義盛。新宮十郎義盛。あるいは新宮十郎行家。平治の乱で兄義朝軍に参加。平治の乱の敗戦後は紀州熊野に雌伏。
- 源義平 義朝の長男。悪源太。平治の乱で活躍。平治の乱の敗戦後、単独京都に潜入し、平清盛暗殺を企てる。
- 源朝長 義朝の次男。平治の乱で傷つき、自害。
- 源頼朝 義朝の三男。鎌倉幕府を開き武家政治を創始。
- 源範頼 義朝の六男。源平合戦では一方の大将で蒲冠者と呼ばれた手堅い武将。
- 源義経 義朝の九男。源平合戦における華々しい活躍と悲劇的な最期で、古来より民衆に人気が高い。
- 源義康(足利義康) 義朝の盟友。父、源為義の従兄弟。保元の乱では一方の大将として義朝と共闘。父は源義国。保元の乱後に若くして死去。
- 源経国(河内経国) 義朝の後見人。父、源為義の弟。源義国の下で育ち足利義康と義朝の同盟を仲立ちした。源義忠の嫡男(兄の為義は義忠の養子)。保元の乱後は消息不明。
- 源義隆 義朝の大叔父。平治の乱後の逃避行中、義朝を庇って矢を受け死去。頼朝はその恩に報いるために義隆の子、源頼隆に恩賞を与えた。