潼関の戦い
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潼関の戦い(どうかんのたたかい)は曹操と涼州の馬超と韓遂の連合軍が潼関で戦った戦い。曹操が漢中の張魯を討伐しようと攻めた際、この出兵を阻止するため馬超が韓遂らと共に兵を挙げたことから始まった。馬超率いる西涼軍は大奮闘をみせたが、賈詡の離間の計にかかった馬超は韓遂との仲が悪くなり、韓遂は涼州に逃げ帰った。それがもとで馬超は大敗する。
後に馬超は漢中を治めていた張魯に降るが、見切りを付け張魯の元を去り、成都の劉璋を攻めていた劉備に投降。劉備と共に成都を攻めることとなった。
他方、韓遂は西方の民族羌族と組んで曹操軍の涼州討伐隊の司令官夏侯淵と戦うが敗れ、西の果て西平に逃れて病死した。
かくして涼州は曹操のものとなったのである。
なお、この戦いに従軍していた曹操の息子・曹植が、洛陽を通過した際に友人へ贈ったのが「送応氏」、曹丕が弟の無事を祈って詠んだのが「感離賦」である。