瀬島龍三
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瀬島 龍三(せじま りゅうぞう、1911年12月9日 - )は、陸軍の職業軍人、実業家。
富山県小矢部市出身。松尾伝蔵は岳父(松尾の長女が妻)。陸士44期卒。
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[編集] プロフィール
農家にうまれる。富山・砺波中学、陸軍幼年学校を経て、陸軍士官学校を次席(首席は原四郎)で卒業。陸軍大学校を首席で卒業し、昭和天皇から恩賜の軍刀を賜る。
太平洋戦争時、大本営参謀としてガダルカナル撤収作戦、ニューギニア作戦などを担当。1945年7月、関東軍参謀に転出。最終階級陸軍中佐。降伏後停戦交渉に赴くも、シベリアへ11年間抑留される。この間極東国際軍事裁判(東京裁判)にソビエト連邦側証人として出廷させられた。
シベリア抑留から帰還後、1958年に伊藤忠商事に入社。入社3年目にして業務部長に抜擢(1961年)。 翌1962年取締役業務本部長、半年後に常務、1968年には専務、1972年には副社長に就任。
帝国陸軍の参謀本部の組織をモデルにした「瀬島機関」と呼ばれる直属の部下を率いて総合商社化などに辣腕を振るう。同社会長、最高顧問を経て退社後、中曽根内閣のブレーンとして土光臨調委員などを務め政治の世界でも活躍した。
[編集] 評価
山崎豊子の小説『不毛地帯』の主人公壱岐正中佐、『沈まぬ太陽』の登場人物龍崎一清のモデルであるともいわれる。保守層を中心に支持者が多いが、証言が誠実でないとして批判もされていて、評価が分かれる人物である。
なおソ連との停戦交渉時、瀬島が同行した日本側とソ連側との間で捕虜抑留についての密約(日本側が捕虜の抑留と使役を自ら申し出たという)が結ばれたとの疑惑が故・斎藤六郎(全国抑留者補償協議会会長)、保阪正康らにより主張されているが、ロシア側はそのような史料を公開していない。半藤一利はこの疑惑を否定している。本人も停戦協定の際のソ連極東軍事司令官ワシレフスキーと関東軍総参謀長秦には上記の密約を結ぶ権限がなかったことを用いながら反論している。※(『日本の証言』フジテレビ出版)
また、昭和天皇が瀬島について以下のように述べたという話が、田中清玄の自伝に記されている。田中はこのことを、侍従長・入江相政から直接聞いた、としている。※『田中清玄自伝』(文芸春秋社、1993年)による
- 「―先の大戦において私の命令だというので、戦線の第一線に立って戦った将兵たちを咎めるわけにはいかない。しかし許しがたいのは、この戦争を計画し、開戦を促し、全部に渡ってそれを行い、なおかつ敗戦の後も引き続き日本の国家権力の有力な立場にあって、指導的役割を果たし戦争責任の回避を行っている者である。瀬島のような者がそれだ」
但し、陸大を出たばかりの一少佐に過ぎなかった瀬島が「この戦争を計画し、開戦を促し、全部に渡ってそれを行」ったというのは過大評価であるとも言え、「敗戦後の後も引き続き日本の国家権力の有力な立場にあって」というのも事実と異なる(陸軍時代の有形無形の財産を生かして巨大商社のトップにはなっているが)。中曽根内閣の土光臨調時代も保阪正康によれば大した役割を果たしていたわけではなかったという。
[編集] 現職
- 亜細亜大学理事長
- 財団法人千鳥ケ淵戦没者墓苑奉仕会会長
- サーチファーム・ジャパン株式会社 名誉顧問
[編集] 著書
- 『幾山河―瀬島龍三回想録』 産経新聞ニュースサービス、1996年、ISBN 4594020410
- 『大東亜戦争の実相』 PHP研究所(PHP文庫)、2000年、ISBN 4569574270
- 『91歳の人生論―「本分」を極める生き方とは?』 扶桑社、2003年、ISBN 4594042007 (日野原重明との共著)
- 『瀬島龍三 日本の証言―新・平成日本のよふけスペシャル』 フジテレビ出版、2003年、ISBN 4594038808 (番組スタッフ編集)
[編集] 関連書籍
- 保阪正康『瀬島龍三―参謀の昭和史』 文藝春秋 (出版社)(文春文庫)、1991年、ISBN 4167494035
- 共同通信社会部(編)『沈黙のファイル―「瀬島龍三」とは何だったのか』 新潮社(新潮文庫)、1999年、ISBN 4101224218