田中清玄
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田中 清玄(たなか せいげん または たなか きよはる、明治39年(1906年)3月5日 - 平成5年(1993年)12月10日)は、日本の政治運動家。北海道亀田郡七飯町出身。先祖は会津藩城代家老。次男に、田中愛治早稲田大学教授。函館中学出身。
東京帝国大学在学中に日本共産党入党。共産党の書記長となった。昭和5年(1930年)、治安維持法違反容疑で逮捕され無期懲役となった。母の自殺などを経て獄中で転向した。昭和16年(1941年)、恩赦により出獄。山本玄峰老師を頼り龍沢寺に入山、修行生活に入った。大東亜戦争敗戦後は土建業、造船業を営むかたわら反共活動をおこなった。電産争議、王子製紙争議で労働組合の切り崩しをはかった。昭和38年(1963年)には麻薬追放・国土浄化連盟を山岡荘八、福田恆存、市川房枝、三代目山口組田岡一雄組長らと結成した。この直後の昭和38年(1963年)11月9日に、「田中が三代目山口組を利用して関東やくざを撹乱しようとしている」との風評が立ったことから、東声会組員・木下陸男に銃撃され、三発の銃弾を喰らった。東声会・町井久之会長(韓国名は鄭建永)は、児玉誉士夫の仲介で、田岡一雄の弟分になっていたためである。国外においては、アジア主義者の立場からタイの復興に尽力し、インドネシアでスカルノ政権が容共に傾くとスハルトを支持し政権実現に動いた。日本のエネルギー確保のため石油資源獲得に活躍。英国やアラブ首長国連邦との石油輸入交渉に当たった。また欧州共同体結成以前から汎ヨーロッパ運動に関わりを持ち日本モンペルラン・ソサエティに入会。オットー・フォン・ハプスブルクやフリードリヒ・ハイエクらと親交を結んだ。ハイエクがノーベル賞を授賞した受賞式にはパートナーをつとめた。中国の鄧小平とも個人的な招聘により関係を深めた。
その人脈は、昭和天皇をはじめ、吉田茂、佐藤栄作、田中角栄、中曽根康弘など歴代首相、池田成彬、松永安左ェ門、土光敏夫らの財界首脳、 スハルト、ピブンソングラム、アンドレ・マルロー、ハプスブルグ家の当主・オットー・フォン・ハプスブルクなど日本のみならず世界の錚錚たる人物と濃密な付き合いから戦後の怪物と報じられてた。
その基本姿勢は、戦後の60年代においては経済界に対して「反共運動の闘士」として資金を集め、一方で輸入に資源を頼る日本政財界の首脳部と欧米のメジャー(石油資本)との窓口となり、その傍らで欧州金融界の雄であるロイズと情報を分かち合う。その世界観と理論観は、田中の秘書であった杉浦健五やその秘書らに今も引き継がれているとされる。左から右に縦横無尽に生きた本物の国士であると評価する論者も多い。実際、谷中の全生庵で開かれた葬儀に訪れ弔辞を述べた中山素平は田中清玄のことを「本物の国士であった」と評した。草柳大蔵は書評の中で「ナショナリストであった」と述べた。
中学校時代の同級生に亀井勝一郎がいる。
なお名前の読みは正しくは「きよはる」であり「せいげん」は通称。ただし、一般的には「せいげん」で通っている。本人もどちらでも構わないと語り、晩年住んだ伊豆高原の邸宅の表札には「Seigen」と英文で記されていたという。
関連書籍
- 田中清玄自伝(大須賀瑞夫)インタビュー、文藝春秋社刊