王政君
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王政君(おう せいくん、紀元前71年 - 13年)は、前漢後期の人。元帝(劉奭)の皇后で、成帝(劉驁)の生母。孝元皇后、元后、孝元皇太后、孝元太皇太后と称される。王莽の姑母にあたる。
当時、皇太子であった元帝の寵愛を受け、成帝を産み、元帝の正妻となった後、宣帝の死に伴い、元帝が帝位に即くと、自身も皇后(孝元皇后)に冊立された。しかし、成帝の誕生には、次のような話も伝わっている。当時、愛妾に先立たれていた劉奭は、そのショックで誰も女性を近づけなかった。この時、劉奭に子供はおらず、かねてから、彼の資質に不安を抱いていた宣帝はこれを機会に劉奭を廃嫡したい旨を内々に洩らし始めた。これを聞いて慌てた、劉奭の育ての母(元帝の生母・許氏は早くに没した)で皇后の王氏(王政君とは同姓の他人)及び劉奭の側近達は彼に早く子供を儲けることを求め、やむなく劉奭が寝所に呼んだのが王政君であった。一度の関係で、王政君は劉驁を妊娠、出産した。宣帝は孫の誕生を喜び、自分の手許で劉驁を育てることに決めた。ちなみに、劉驁の名付け親は宣帝であり、その字・太孫(嫡孫の意)も彼が名付けたものである。このことから、如何に宣帝がこの孫の誕生を喜んだかが伺えよう。これにより、劉奭の廃嫡話は立ち消えとなったが、以後、劉奭が王政君と関係を持つことはあまりなかったと言われる。
紀元前33年に元帝が没し、成帝が即位すると、王政君は皇太后(孝元皇太后)として、世上の尊敬を一身に集める立場となる。この頃から、彼女の兄弟や甥達が政治の中枢に関与することとなり、王氏一族は、わが世の春を迎える。ただ、王莽が政治に参与するようになるのは、もう少しあとのことである。紀元前7年、成帝が急死し、元帝が愛妾・傅氏に産ませた、劉康(定陶恭王)の子・劉欣(哀帝)が即位すると、哀帝の外戚の傅氏(祖母の実家)と、丁氏(母の実家)が政治に関与するようになり、王氏一族は権力を削られ、太皇太后(孝元太皇太后)となった王政君もその影響力を弱めることとなる。
紀元前1年、哀帝が急死し、劉衎(平帝)が即位すると、王政君はその混乱に乗じ、太皇太后として、詔を出して、哀帝の外戚及び側近勢力を排除し、王莽を大司馬に任じ、輔政を命じた。しかし、この頃から、王莽は簒奪への動きを強め、瑞兆を理由に自らの権威強化を図るようになる。王政君自身は、王莽が簒奪を行うことに反対で、寧ろ漢家の外戚として王氏が権力を握り続けることを願っていたらしく、王莽に尊号を贈ろうとする動きには、暗に反対の立場をとっている。5年に、王莽と対立した結果、平帝が毒殺され、劉嬰(孺子嬰)が皇帝に擁立され、王莽が周の成王と周公旦の故事に倣い、仮皇帝(摂皇帝)を名乗り、さらに、8年に帝位に即くべく、当時、伝国璽を手許に保管していた王政君に伝国璽を自身に引き渡すように求めた時、王政君は激怒し、その使者をつかまえて、次のように王莽を罵ったと言う。
「お前は、誰のおかげで今の地位を得ることが出来たと思っているのか。全ては漢の歴代の皇帝陛下のお情けによるものではないか。そのご恩を忘れて、漢家が衰えるとその地位を奪わんとするのは、いったいどういうつもりなのか。お前のような奴の食べ残しは犬でも食わぬだろう。」
こう言って、王政君は伝国璽を使者に向けて投げつけ、泣き崩れたという。ちなみに、この時投げつけられた伝国璽は、一部が欠損したといわれる。
王莽が即位すると、王政君は「新室文母太皇太后」の尊号を贈られ、彼女のための住まいがもうけられた。そして、その住まいは、かつての元帝の廟を取り壊して造営された宮殿であった。ここで王政君のための宴会が開かれたが、
「こんなことになってどうして宴会を楽しめようか。」
と、参加することはなかったという。