王政復古 (日本)
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王政復古(おうせいふっこ)は、江戸時代末期の1868年1月3日(慶応3年旧暦12月9日)に朝廷(天皇)が発した、政権が天皇に移った事を宣言する政変である。 王政復古の大号令とも呼ばれる。
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[編集] 経過
江戸時代後期には、諸外国との通商条約の締結などを巡って、朝廷の伝統的権威が復興し、幕府と朝廷の提携による公武合体政策が取られ、一方では尊皇攘夷派など反幕府思想、武力による倒幕運動なども存在した。
土佐藩の建言もあって、15代将軍の徳川慶喜は公議政体論に基づき、1867年11月9日(慶応3年旧暦10月14日)に二条城で大政奉還を行い、264年間に渡って江戸幕府、徳川将軍家が保持していた政権は、朝廷に移った。ただしこれは、朝廷の下に一元化された政治の中枢に入り、引き続き実権を握りながら、討幕の名分を失わせるのが目的だった。
朝廷は新たな公議政体を創設するため、徳川家勢力からの徳川慶勝と松平慶永、薩摩藩の島津久光、土佐藩の山内豊信、宇和島藩の伊達宗城、広島藩の浅野長訓、肥前藩の鍋島直正、岡山藩の池田茂政(慶喜の実弟)ら諸藩に上洛を命じた。
一方、大政奉還によって討幕の大義名分が失われたうえ、当時の朝廷は親徳川派の摂政・二条斉敬や久邇宮朝彦親王が主催するところであったため、徳川中心の朝廷政府が成立するのを怖れた公家の岩倉具視や薩摩藩の大久保利通ら討幕派は、満15歳の明治天皇を手中にして二条摂政や朝彦親王を排除し、朝廷を掌握するためのクーデター計画を進めた。
当初は1868年1月2日(慶応3年12月8日)を予定していたが、公議政体派である土佐藩の後藤象二郎から1月4日(旧暦12月10日)を要請され、やむなく1日遅らせての1月3日(旧暦12月9日)に決行することで決した。
前日の1月2日(旧暦12月8日)夜、岩倉は自邸に薩摩、土佐、安芸、尾張、越前各藩の重臣を集め、王政復古の断行を宣言、協力を求めた。また、二条摂政によって翌日朝にかけて行われた朝議では、毛利父子の官位復帰と入京の許可、岩倉具視ら勅勘の堂上公卿の蟄居赦免と還俗、九州にある五卿の赦免などが決められた。これが旧体制による最後の朝議となった。
[編集] 王政復古の大号令
1868年1月3日(慶応3年旧暦12月9日)、朝議が終わり公家衆が退出した後、待機していた薩摩藩兵ら5藩の軍で京都御所9門を固められた。御所への立ち入りは藩兵によって厳しく制限され、驚いた二条摂政や久邇宮朝彦親王なども参内を禁止された。そうした中、赦免されたばかりの岩倉具視らが参内し、御所内学問所において明治天皇臨席の元、王政復古の大号令が下された。
内容は、摂関制度(摂政・関白)、幕府を廃し、総裁、議定、参与の三職をおく、というもので、天皇による新政府の成立を宣言するものであると同時に、徳川幕府の廃絶を意味した。
新任された三職
- 総裁:有栖川宮熾仁親王
- 議定:仁和寺宮嘉彰親王、山階宮晃親王、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之、島津忠義、徳川慶勝、浅野茂勲、松平慶永、山内豊信
- 参与:岩倉具視、大原重徳、万里小路博房、長谷信篤、橋本実梁
なお、この三職制度は翌年閏4月の政体書にて廃止され、太政官制度に移行した。
[編集] 小御所会議
この日の夕方、御所内の小御所にて明治天皇の御前における新体制として最初の会議が開かれた。ここには、総裁、議定、参与の各職が出席したが、各藩から選ばれた藩士も敷居際に陪席を許され、この中には薩摩藩の大久保利通、土佐藩の後藤象二郎、広島藩の辻将曹らがいた。
山内豊信ら公議政体派は、前将軍の徳川慶喜が出席を許されていないことを非難し、慶喜を議長とする諸侯会議の政体を主張した。これに対し岩倉、大原らは初め押されていたが、山内が「そもそも今日の事は一体何であるか。二、三の公家が幼沖なる天子を擁して陰謀を企てたものではないか」と詰問すると、岩倉が「今日の挙はことごとく天子様のお考えの下に行われている。幼き天子とは何事か」と失言を責めたため、山内も沈黙したという。なお、岩倉らは徳川政権の失政を並べ、辞官納地による誠意を見せることが先決であるとして両者譲らず、会議は休憩に入った。
薩摩藩家老岩下方平は外で警備を担当していた西郷に相談するが、相談を受けた西郷は「短刀一本あれば片付く」と答え、これを聞いた岩倉らは芸州藩を通じて土佐藩に働きかけたため、再開された会議では豊信らは沈黙し、クーデターは成功した。結果、徳川慶喜の辞官納地、京都守護職、京都所司代の廃止が決せられ、一門の慶勝、慶永が使者として立つ事になった。
しかしその後、土佐藩ら公議政体派が巻き返し、辞官納地も有名無実化される寸前になったが、薩摩藩の暗躍に幕府側の強硬派が乗せられ、鳥羽・伏見の戦いに突入することになる。