白河小峰城
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復元された三重櫓と前御門 | |
通称 |
白河城、小峰城 |
城郭構造 |
梯郭式平山城 |
天守構造 |
三重三階櫓 |
築城主 |
結城親朝 |
築城年 |
1340年 |
主な改修者 |
丹羽長重 |
主な城主 |
結城氏、蒲生氏、丹羽氏 |
廃城年 |
1871年 |
遺構 |
石垣、土塁、堀 |
位置 |
白河小峰城(しらかわこみねじょう)は、福島県白河市にある平山城である。単に白河城とも小峰城ともいう。日本100名城のひとつ。東北では珍しい総石垣造りの城で、盛岡城、会津若松城とともに東北三名城のひとつにも数えられている。周辺は城山公園として整備され、公園内には、結城氏や阿部氏に関する資料を展示した「白河集古苑」や「白河バラ園」(6月のみ営業)がある。
[編集] 概要
白河小峰城は、南北朝時代の1340年(興国元年)に、結城親朝が小峰ヶ岡に城を構えて小峰城と名づけたのが始まりとされる。 1590年(天正18年)に、城主の白河結城氏が豊臣秀吉の奥州仕置により改易されると、その後、この地は会津領となり、蒲生氏、続いて上杉氏、再度、蒲生氏に支配されることとなった。
1627年(寛永4年)、丹羽長重が10万石で棚倉城(福島県棚倉町)から移封され、幕命により、寛永6年より城郭の大改築に着手、4年の歳月を費やして1632年(寛永9年)に完成した。
その後丹羽氏、榊原氏、本多氏、奥平松平氏、越前松平氏、久松松平氏、阿部氏と七家二十一代の城主の交代があったが1867年(慶応3年)最後の阿部氏が棚倉に移封された後、白河藩は幕領となり城郭は二本松藩丹羽氏の預かるところとなる。
白河小峰城は戊辰戦争で奥羽越列藩同盟軍と新政府軍との激しい攻防の舞台となり、1868年(慶応4年)5月1日、大半を焼失し落城した。
その後、城跡には曲輪・土塁・石垣・水堀を残すのみだったが、1991年(平成3年)に本丸跡に三重櫓(天守に相当)が、1994年(平成6年)に前御門が当時の史料(市重要文化財・白河城櫓建絵図)に基づいて復元された。戊辰戦争の激戦地となった松並稲荷山の杉を使って復元をしており、中に入り柱をみると弾傷が確認できる。
復元天守は昭和期に多数作られたが、それらはみな鉄筋コンクリート造りで、外観のみ元に復したものであった。白河城の三重櫓は構造まで木造で復元した最初のもので、今も数少ない木造復元天守の一つである。しかし木造の巨大建築は安全性の面から建築基準法で原則禁止されている。白河城では、人の立ち入りを想定しない工作物として許可を得て、後になって内部に見学者を入れるという脱法行為を行い、問題化した。現在は問題なく立ち入れる。
多くの城内の建造物が焼失または破却により失われたが、二の丸入口付近の太鼓門西側に建てられていた太鼓櫓は1873年(明治6年)に民間に払い下げられ、三の丸の紅葉土手に移築された後、1930年(昭和5年)に現在地に移築された。二度の移築により、建物そのものは改造され原型は大きく損なわれているが、当時の面影を今に伝える唯一の建物遺構として意義がある。現在は茶室として利用されている。
[編集] 関連項目
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