結城親朝
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結城親朝(ゆうき ちかとも、生年不詳 - 1347年(正平2年/貞和3年))は、鎌倉時代から南北朝時代にかけての武将。結城宗広の嫡男で、結城親光の兄。結城顕朝・小峰朝常の父に当たる。官位は修理大夫。大蔵大輔。
父や弟と共に鎌倉幕府の討幕運動に参加して功績を挙げた。建武の新政で鎮守府将軍府が設置されると、評定衆・引付頭人に任じられ、白河などの所領を与えられた。足利尊氏と後醍醐天皇による争いが起こるとはじめは父と共に南朝勢力として転戦した。父とは独自の地盤(のちの小峰氏の元となる)を築いていたが、1338年に父の宗広が病死すると、子の顕朝を送り込み、父の遺領を支配させた。南朝勢力が次第に劣勢に陥ったのを見て方針を変え、1343年に北朝勢力に寝返って北畠親房を攻めている。1347年、死去した。
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