相良頼峯
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時代 | 江戸時代中期 | |||
生誕 | 享保20年9月29日(1735年11月13日) | |||
死没 | 宝暦8年4月12日(1758年5月18日) | |||
別名 | 政太郎(幼名) | |||
戒名 | 秀徳院殿雄山玄英 | |||
墓所 | 熊本県人吉市の願成寺 東京都港区西麻布の大安寺 |
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官位 | 従五位下、志摩守 | |||
藩 | 肥後人吉藩主 | |||
氏族 | 相良氏 | |||
父母 | 父:相良長在 | |||
妻 | 正室:なし | |||
子 | 養子:相良頼央 |
享保20年(1735年)9月29日(異説として享保18年(1733年)、第6代藩主・相良長在の子として生まれる。元文3年(1738年)の父の死去により後を継いで藩主となる。しかし幼少であることから幕府より領地を削減されることを恐れた家臣団が、頼峯の生年を2年ほど改竄したと言われている。
享保の大飢饉による被害で藩財政難に苦しみ、倹約令を出す。しかし効果は無く、宝暦5年(1755年)に藩内を大洪水が襲って大被害を受けた。翌、宝暦6年(1756年)8月に頼峯が江戸に出府しているとき、家老(大衆議派)の万江長右衛門ら5人は、逼迫する藩士の生活を助けるために藩の銀を貸し出し、返済方法は藩士の知行から年賦払いにするという改革案を提示する。これに対して門葉(相良一族で小衆議派)である相良織部、相良頼央らは、その返済方法では藩士の知行はどのみち削減されて、一層貧困に苦しむとして反対したことから、家老と門葉による対立が起こった。
これに対して、頼峯ははじめ門葉を支持し、さらに自分に継嗣が無かったことから、相良頼央を自らの養子として迎えるまでにいたった。養子縁組に対して家老一派は反対したが、頼峯は押し切ってしまった。ところが藩医の右田立哲なる者が、門葉一派の指示を受けて頼峯を毒殺して頼央を擁立しようとする陰謀が発覚する。この事件で右田は自殺し、門葉一派も処分され、頼峯は一転して家老一派による改革を承認したのである。
宝暦8年(1758年)4月12日(異説として4月14日)に江戸参府の途上、発病し、江戸到着後に死去した。享年24。この若さのため、一説に毒殺ともされている。後を養子の頼央が継いだ。
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