看板大関
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看板大関(かんばんおおぜき)とは、江戸時代、相撲の大関不在時の穴埋めとして、大きくて見栄えがするというだけの理由で番付に大関として記載した力士。
よく考えれば当たり前のことではあるが、このように選ばれた大関がそれにふさわしい力を備えているとは限らない。そのため、土俵入りには毎日出場するが、取組はほかの力士が出場しない千秋楽に看板大関同士の対戦だけであったり、全休で一番も取らないという例も少なくなかった。
実際に本物の大関と認められる実績を残した者は非常に少なく、その多くは次の看板大関が見つかると番付から姿を消す。ただし、実力を認められた者は関脇や小結、または平幕に〈降格〉(厳密に言えば実力相応の地位に配置されたのだから降格とはいえないが)されている。実際に、実質的な最初の横綱である谷風も元は看板大関で、前頭に降格ののち実力で大関位を手にしている。
看板大関の制度自体は江戸時代のうちに消滅するが、明治時代までは「小さい者は大関にふさわしからず」と言われて番付でも大きい者は優遇、小さい者は冷遇されることが多かった。 その影響を受けた力士の代表として大砲と荒岩が挙げられる。 のちの横綱大砲は並はずれた巨漢で、新入幕場所では3勝6敗と振るわなかったにもかかわらず翌場所上位力士に好成績者がいなかったために小結昇進を果たしているのに対し、荒岩は横綱級の実力を持ちながら、当時の横綱陣に体格が劣ったために横綱昇進を果たせなかった。