谷風梶之助 (2代)
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谷風 梶之助(たにかぜ かじのすけ、寛延3年8月8日(1750年9月8日) - 寛政7年1月9日(1795年2月27日))は、今の仙台市若林区霞目生まれの大相撲力士。4代横綱。小野川喜三郎とともに実質的な横綱第1号とされ、大相撲史上屈指の強豪。本名、金子与四郎。
1769年(明和6年)4月、伊達関(のち達ヶ関)の四股名で看板大関として初土俵。しかしこれをよしとせずに前頭に降格、のちに実力で大関位を手にした。
1777年(安永6年)10月から1782年(天明2年2月)まで分・預・休をはさみながらではあるが、土つかずで63連勝(止めたのは小野川)。のち昭和の時代に双葉山が69連勝を達成するまで、約150年にわたって記録保持者であり続けた。江戸本場所における通算成績は、49場所254勝14敗16分16預5無勝負106休で、勝率.949、優勝相当21回と「天下無敵」の名にふさわしい記録が残っている。
体格は、全盛時代で身長189センチ、体重169キロのアンコ型巨人だったと伝わる。
1789年(寛政元年)11月、小野川喜三郎とともに吉田司家吉田追風から横綱を免許される。この時が実質の横綱制度の発祥とする見方が、現在では定説である。征夷大将軍徳川家斉観戦の寛政3年(1791年)6月11日小野川喜三郎と上覧相撲をおこなう。またこのとき将軍家より弓を賜り、これを手に土俵上で舞ってみせたのが現在の弓取式の始まりとされる。
小野川喜三郎や後続の雷電爲右衞門らとともに、寛政に最初の相撲黄金時代を築いた。上述の横綱制度や、弓取式など現在までのこる相撲界の形式の多くがこの時代に形作られた。
流行病のために44歳で35連勝のまま現役死した。このことから、風邪のことを「タニカゼ」と呼ぶようになったと伝えられているが、正しくは、谷風が「土俵上で儂を倒すことはできない。倒れているのを見たければ儂が風邪にかかった時に来い」と語った時(天明4年頃)に流行っていた流感を「タニカゼ」と呼んだものである。死因となった流感は「御猪狩風」と呼ばれていたが、後に「タニカゼ」と混同されるようになった。
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カテゴリ: 江戸時代の人物 | 宮城県出身の大相撲力士 | 1750年生 | 1795年没