石勒
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
石勒(せきろく 274年 - 333年、在位319年 - 333年)は中国、五胡十六国時代の後趙の創建者。字は世龍。廟号は高祖、諡号は明皇帝。
上党郡武郷(現山西省楡社の西北)の人。周曷朱の子。羯族の部落小帥の子であった。当時の羯族は漢族によって迫害を受けて困窮し、并州の飢饉戦乱にあって部落離散して、石勒も流浪の旅に出ざるを得ず、その途中で晋の東嬴公司馬騰に捕らえられて山東の師懽に売られて奴隷とされた。
八王の乱の混乱に乗じて群盗となり、公師藩が起兵するとこれに合流した。ほぼ同時期に匈奴の劉淵が漢(前趙)を興したのでこれに帰順し、輔漢将軍・平晋王として征戦に従事した。
309年、鉅鹿・常山を攻め、君子営を作って漢人の知識人を集め、張賓を謀主とした。310年に劉淵が死に、劉聡が即位すると并州刺史となり、汲郡公に封ぜられた。311年、東海王司馬越の葬列を襲って、西晋の太尉王衍を捕らえて殺した。王弥を誘い殺してその部下を併せ、襄国を拠点として幽州・并州の経略にあたった。王浚を殺し、劉琨(王編に昆)を破った。
318年、前趙の劉曜が即位すると、大司馬・大将軍に上り、次第に劉曜と対立するようになった。319年、靳準の乱を平定し、趙王を自称した。これが後趙の建国である。328年、太和と建元し、洛陽で前趙の軍を破った。
329年、前趙を滅ぼし、劉曜を殺すと、天王を称し、翌年に帝位についた。羯族を軍事基盤として、華北の大半を平定し、華南の東晋と対峙した。
333年に死去するが、死後に後継争いが起き、太子が殺されて史上に殺人鬼の名前が高い石虎が帝位につく。
石勒は自らは字が読めなかったが、他人に書物を読ませて聞かせる事が好きであり、漢人士大夫を登用して、律令・官制を整えた。『趙書』などの史書を編纂させたといわれる。仏教を崇拝し、仏図澄を信奉したことでも知られる。
また、曹操が献帝を利用したこと、司馬懿が郭太后を利用したことを批判している。「大丈夫(立派な男)たる者、磊磊落落(「磊落」の強調)、日月が明るく輝くように物事を行うべきであって、曹孟徳(曹操)や司馬仲達(司馬懿)父子のように、孤児(献帝)や寡婦(郭太后)を欺き、狐のように媚びて天下を取るような真似は絶対にできない」と、発言した。
|
|