石川総禄
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時代 | 江戸時代後期(幕末) | |||
生誕 | 文政12年(1829年) | |||
死没 | 文久2年9月17日(1862年11月8日) | |||
別名 | 総定(初名) | |||
戒名 | 常照日徳総禄院 | |||
墓所 | 東京都北区田端の大久寺 | |||
官位 | 従五位下、長門守、主殿頭 | |||
藩 | 伊勢亀山藩主 | |||
氏族 | 石川氏 | |||
父母 | 父:石川総安、養父:石川総紀 | |||
妻 | 正室:松平定永の娘 | |||
子 | 養子:石川総脩 |
石川 総禄(いしかわ ふさよし)は、伊勢亀山藩の第10代藩主。
文政12年(1829年)、第8代藩主・石川総安の子として生まれる。嘉永6年(1853年)5月7日に第9代藩主・石川総紀が隠居したため、その養子として家督を継いで第10代藩主となり、従五位下、日向守に叙位・任官する。
幕末期の動乱の中で、会津藩士を招聘して洋式軍制改革を行ない、財政再建のために茶の栽培、山林開拓による新田開発など、積極的な藩政改革を行なった。その一方で佐幕派として和宮の江戸降下や江戸にあるフランス公使館の警護を務めている。
文久2年(1862年)に参勤交代で江戸に到着した直後に病に倒れ、9月17日に死去。享年34。後を養子の石川総脩が継いだ。
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