参勤交代
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参勤交代(さんきんこうたい、參覲交代)は、各藩の大名を定期的に江戸に出仕させる江戸時代の大名統制のための制度である。それまで各大名が自主的におこなっていたものを寛永12年(1635年)の武家諸法度改定によって義務付けした。参勤は一定期間主君(この場合は将軍)のもとに出仕すること、交代は暇を与えられて領地に帰り、政務を執ることを意味する。
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[編集] 起源
参勤交代の起源は鎌倉時代にみられた御家人の鎌倉への出仕である。戦国大名の一部は自身の居城の城下町に服属した武士を集めるようになり、豊臣秀吉が大坂城・聚楽第・伏見城で支配下に服した大名に屋敷を与え、そこに妻子を住まわせたことから全国的な参勤制度の原形ができあがった。 1年ごとに行き来していた。
[編集] 制度の完成
慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利して覇権を確立すると、諸大名は徳川氏の歓心を買うため江戸に参勤するようになった。家康は秀吉の例にならって江戸城下に屋敷を与え、妻子を江戸に住まわせる制度を立て、自発的な参勤とあわさって次第に制度として定着してゆき、寛永12年(1635年)3代将軍・家光の時代に正式に法令として定められた。譜代大名にも参勤交代が義務付けられ、原則として幕府の役職者を除く全ての大名が参勤交代を行うようになるのは寛永19年(1642年)である。ただし、水戸徳川家などの一部の親藩・譜代大名は領地が江戸に近かったり、領地が小さいことから、例外として交代を行わずに江戸に常駐し、「定府」と呼ばれた。また、「交代寄合」と呼ばれる格式の高い旗本は大名に準じて参勤交代を行った。
[編集] 概要
寛永12年(1635年)の参勤交代制度のもとでは、諸大名は1年毎に江戸と自領を行き来し、妻子は人質として江戸に常住しなければならなかった。参勤は本来将軍と大名の間で結ばれた「御恩と奉公」の主従契約を確認し、奉公を果たす主君のもとに大名本人と石高にあわせて保有を定められた兵力を出仕させる軍役の一種であるが、同時にこれにより大名が謀反などを起こすことを抑止する働きがあったとされる。
参勤交代は軍役であるから、大名は保有兵力である配下の武士を随員として大量に引き連れて江戸に出仕し、領地に引き上げねばならないため、移動の際に大名行列という大掛かりな行進を行う必要があった。このために費用がかさみ、参勤交代は大名の財政を圧迫させることとなった。しかし、8代将軍・吉宗のときに財政窮乏を理由に部分的緩和が行われた時期を除いて江戸時代を通じて参勤交代制度は堅持された。幕末の文久2年(1862年)閏8月には、文久の改革の一環として、3年に1回(100日)の出府に緩和された。その後、1864年(元治元年)9月、禁門の変後の情勢を幕府が過信し、参勤交代を元に戻したが、従わない藩も多かった。
参勤交代のために、街道や宿場が整備され、大名行列が消費する膨大な費用によって繁栄した。また、大量の大名の随員が地方と江戸を往来したために、彼らを媒介して江戸の文化が全国に広まる効果を果たした。
なんらかの事情で参勤交代が免除される事があり、これを用捨と言った。用捨が許される理由としては、居城の火災、飢饉、藩主の病気、代替りなどがある。
[編集] 参考文献
- 山本博文『参勤交代』(講談社現代新書、1998年) ISBN 4061493949
- 忠田敏男『参勤交代道中記-加賀藩史料を読む』(平凡社ライブラリー、2003年) ISBN 4582764630