祇園南海
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祇園南海(ぎおん なんかい、延宝4年(1676年)- 宝暦元年9月8日(1751年)(生年について延宝5年(1677年)の説あり))は江戸時代中期の日本の儒学者、漢詩人、文人画家。服部南郭、柳沢淇園、彭城百川とともに日本文人画の祖とされる。
名を与一郎、正卿、瑜とし、字は白玉、号は南海のほか、蓬莢、鉄冠道人、箕踞人、湘雲、信天翁、観雷亭など。通称は余一と呼ばれた。本姓が源であることから、中国風に修して源瑜、阮瑜と称した。
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[編集] 生涯
紀州藩医 祇園順庵の長男として江戸に生まれる。元禄2年(1689年)、14歳で木下順庵に入門。主に程朱学を学ぶ。はじめて師に会ったとき、七言律詩を詠んで師を驚かすなど年少の頃より詩才を示す。17歳のときには一晩で五言律詩百篇を作るなど天賦を現した。同門に新井白石、室鳩巣、雨森芳洲、榊原篁洲などの優れた門弟がおり、「木門十哲」のひとりに数えられた。また松浦霞沼とは同年であり、「木門の二妙」とその才能を讚えられた。19歳年上の新井白石は南海の詩を絶賛した。
父が死去したため、元禄10年(1697年)22歳で家督を継ぎ、紀州藩儒として200石の俸禄を与えられる。しかし三年後、不行跡、放蕩無頼を理由に知行を召し上げられ城下を追放されて、長原村(和歌山県那賀郡貴志川町)に謫居を命じられてしまう。一説には筆禍ともされるが、酔うほどに大言壮語し儒者として品格を疑われていたようである。『逢原紀聞』によれば若き日の南海は侠客のような徒党のリーダー格になって住民へ乱暴狼藉を働き、恐喝や婦女暴行をしていたことが伝えられていることから、不行跡、放蕩無頼は字義通りだったと考えられる。
謫居中の約10年間、村人に書を教えるなどして糊口をしのぎ、貧窮生活に耐えた。その間、家老三浦為隆の庇護を受けていたようである。ようやく新しく藩主となった松平頼方から赦しを得る。この赦免には南海の才能が埋もれることを嘆いた、刎頚の友 新井白石の計らいがあったことは間違いない。 翌年(1711年)、南海は来日した正徳度の朝鮮通信使の接待役の任を受け、持ち前の詩才を披露するなど大いに活躍し、その功績により旧禄に戻される。朝鮮側の李東郭は南海の漢詩を高く評価し「敬次南海詞仙韻」と讚えた。後日南海は、東郭とは夢に見るまでの友情で結ばれたと『南海先生後集』で述べている。
翌 正徳3年(1713年)、藩校湊講館が創設され、南海は督学(校長)となる。これより長寿を全うするまで、多くの文人墨客と交わり、詩をよくし、画業を研鑽した。
[編集] 画業
南海は蟄居中にも画の製作(『秋景山水図』宝永4年(1707年))をしている[1]が、本格的に取り組んだのは50歳頃であると自ら述べている(『湘雲鑚語』)。一時、長崎派の河村若芝に添削指導を受けたこともあるが、中国渡来の画譜「八種画譜」や「芥子園画伝」から元明の文人画の知識と技法を習得した。たとえば宋代の米芾が用いた米法山水の技法を自らのものにとし山や樹木の表現に取り入れている。
南海の詩集には江戸白金の紫雲山瑞聖寺、長崎崇福寺の僧 道本寂伝、紀州の宝寿山光明寺の普白元脱の名がみえるが、黄檗僧のとの交流から文人画のエッセンスを会得したであろうと推察される。また和泉佐野の富商唐金梅所と親しかったことから梅所の知己であった文人との繋がりが窺える。さらに正徳度の朝鮮通信使の接遇時に画員の朴東晋と交渉があったことから、山水画や花鳥画の画法を受けたと思われる。
柳沢淇園や彭城百川に文人画の指南をし、貴重な画譜を贈っている。死の前年であたる1750年に、柳沢淇園の紹介を受けた池大雅が紀州の南海の下を訪れ、文人画の教えを受けている。その画業は、与謝蕪村、伊藤若冲、曽我蕭白らにも多大な影響を及ぼした。
[編集] 作品
- 「紅梅図」 和歌山市立博物館 蔵[1]
[編集] 著書
- 『一夜百首』
- 『南海詩法』
- 『南海詩訣』
- 『詩学逢原』1763年
- 『湘雲鑚語』
- 『明詩俚評』
- 『南海先生詩文集』
[編集] 出典
- 大槻幹郎『文人画家の譜』ぺりかん社、2001年、172 - 174頁、 ISBN 4831508985。
- 李元植『朝鮮通信使の研究』思文閣出版、1997年、296 – 301頁 ISBN 4784208631。
- 筑波大学日本美術シソーラスデータベース作成委員会編 日本美術シソーラス・データベース絵画編
- 原念斎 『先哲叢談』1816年。
[編集] 註
- ^ (大槻、2001年)では享保4年(1719年)、44歳の時の墨竹図が最初の作とされているが、ここでは(筑波大学日本美術シソーラスデータベース)に従う。