神戸海軍操練所
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神戸海軍操練所(こうべかいぐんそうれんじょ)は、江戸時代の1864年(元治1)5月に、軍艦奉行の勝海舟の建言により幕府が神戸に設置した海軍士官養成機関、海軍工廠のことである。
幕臣でありながら幕府の瓦解を予見していた勝の元には、倒幕派の志士も多く集っていた。この操練所が神戸に出来て以後、漁村であった神戸は港町としての成長を見せ始めるようになる。それを見越していた勝は、地元で自分の世話をしてくれた者に「今のうちに土地を買っておくがいい」と助言したところ、見事に地価が高騰し、その者は大きな利益をあげた、というエピソードがある。
しかし、八月十八日の政変で失脚した長州藩が京都へ進攻した禁門の変の責を問われて勝は軍艦奉行を罷免される。さらに土佐脱藩浪士や長州に同情的な意見を持つ生徒が多かったこの操練所は、幕府の機関でありながら反幕府的な色合いが濃いとして翌年1865年に閉鎖された。
ちなみに、神戸海軍操練所と勝海舟個人の私塾は別物として考えねばならないという説が、松浦玲や篠原宏といった研究者から出されている。
[編集] 主な塾生
- 坂本龍馬:塾頭。勝海舟に見出され、操船術を学ぶが、そのほとんどは我流であった。脱藩後の青春の舞台であった操練所の閉鎖と、師である勝の罷免は彼を失望させ、これ以後倒幕運動に本腰を入れ始める。操練所解散後は、ここでの経験を生かし亀山社中を結成。ただし、松浦玲などの意見を採用するならば、龍馬は神戸海軍操練所には入れず、勝海舟個人の私塾の塾頭でもなかった。実際のところ、勝海舟の私塾を取り仕切っていたのは龍馬ではなく、佐藤与之助であったと考えられる。しかし、勝自身が、『氷川清話』のなかで、坂本竜馬が塾頭であったと語っていることから、坂本が、神戸の海軍操練所あるいは、それに付随した塾と全く関係がなかったということはできないだろう。
- 陸奥宗光:坂本の引き立てによって副長格となる。竜馬の秘書的な役割を担った。後の日清戦争時、外務大臣。
- 伊東祐亨:薩摩藩出身。後に初代連合艦隊司令長官となり、黄海海戦の指揮をとる。
- 北添佶摩・望月亀弥太:土佐脱藩。坂本の制止を振り切り池田屋事件に関与。これが元で勝海舟の立場が悪くなったとも言える。
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