陸奥宗光
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陸奥 宗光(むつ むねみつ、弘化元年7月7日(1844年8月20日) - 明治30年(1897年)8月24日)は、日本の武士・紀州藩士、政治家、外交官。「カミソリ大臣」と呼ばれ、外務大臣として不平等条約の改正(条約改正)に辣腕を振るった。江戸時代までの通称は陽之助。 伯爵。勲一等瑞宝章(1893年)。
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[編集] 経歴
1844年(弘化元年)紀州藩藩士伊達宗広(伊達千広とも)と政子(渥美氏)の六男として生まれる。幼名は牛麿(うしまろ)。生家は伊達騒動で知られる、伊達政宗の末子、伊達兵部宗勝の後裔と伝えられるが、実際は古くに陸奥伊達家から分家した駿河伊達家の子孫。伊達小二郎、陸奥陽之助と称する。国学者・歴史家としても知られていた父の影響で尊王攘夷思想を持つようになる。父は紀州藩に仕え財政再建をなした重臣であったが、宗光が8歳のとき(1852年)藩内の政争にやぶれて失脚したため、一家には困苦と窮乏の生活がおとずれた。
1858年(安政5年)江戸に出て、安井息軒、水本成美に学び、土佐の坂本龍馬、長州の桂小五郎(木戸孝允)、伊藤俊輔(伊藤博文)などの志士と交友を持つようになる。1863年(文久3年)、勝海舟の神戸海軍操練所に入り、1867年(慶応3年)には坂本龍馬の海援隊に加わるなど始終坂本と行動をともにした[1]。龍馬暗殺後、紀州藩士三浦休太郎を暗殺の黒幕と思い込み、海援隊の同志15人と共に彼の滞在する天満屋を襲撃する事件(天満屋事件)を起こしている。
明治維新後は外国事務局御用係[2](1868年)、兵庫県知事(1869年)、神奈川県令(1871年)、地租改正局長(1872年)などを歴任するが、薩長藩閥政府の現状に憤激し、官を辞した。この間、1872年に蓮子夫人が亡くなり、翌1873年(明治6年)亮子と結婚している。大阪会議(1875年)で政府と民権派が妥協し、その一環で設置された元老院議官となる。1877年(明治10年)の西南戦争の際、土佐立志社の林有造・大江卓らが政府転覆[3]を謀ったが、陸奥は土佐派と連絡[4]を取り合っていた。翌年にこのことが発覚し、除族のうえ禁錮5年の刑を受け、投獄された[5]。
1883年(明治16年)1月特赦によって出獄を許され、伊藤博文の勧めもあってヨーロッパに留学する[6]。1886年2月に帰国し、10月には外務省に出仕した。1888年(明治21年)駐米公使となり、同年、駐米公使兼駐メキシコ公使として、メキシコ合衆国との間に日本最初の平等条約である日墨修好通商条約を締結することに成功する。
同年帰国後、山縣有朋内閣の農商務大臣に就任。大臣在任中の1890年(明治23年)に第1回衆議院議員総選挙に郷里和歌山の選挙区から出馬し初当選を果たした[7]。翌1891年(明治24年)に足尾銅山鉱毒事件をめぐり、帝国議会で田中正造から質問主意書を受けるが、質問の趣旨がわからないと回答を出す(二男潤吉は足尾銅山の経営者、古河市兵衛の養子であった)。91年5月成立した松方正義内閣に留任し、内閣規約を提案、みずから政務部長となったが薩摩派との衝突で辞任した。11月後藤象二郎や大江卓、岡崎邦輔の協力をえて日刊新聞『寸鉄』を発刊し、みずからも列する松方内閣を批判、1892年(明治25年)3月辞職して枢密院顧問官となる。
1892年第2次伊藤博文内閣に迎えられ外務大臣[8]に就任。1894年(明治27年)イギリスとの間に日英通商航海条約を締結[9]。幕末以来の不平等条約である治外法権の撤廃に成功する[10]。同年8月、子爵を叙爵する。
いっぽう1894年5月朝鮮で甲午農民戦争がはじまると清国の出兵に対抗して派兵、7月23日朝鮮王宮占拠による親日政権の樹立、25日には豊島沖海戦により日清戦争を開始、イギリス、ロシアの中立化にも成功した[11]。戦勝後は伊藤博文とともに[12]全権として1895年(明治28年)下関条約を調印し、戦争を日本にとって有利な条件で終結させた。しかし、ロシア、ドイツ、フランスの三国干渉に関しては、遼東半島を清に返還するもやむを得ないとの立場に立たされる。日清戦争の功により、伯爵に陞爵する。
これ以前より陸奥は肺結核を患っており、三国干渉が到来したとき、この難題をめぐって閣議がおこなわれたのは、すでに兵庫県舞子で療養生活に入っていた陸奥の病床においてであった。1896年(明治29年)外務大臣を辞し、大磯の別邸[13]やハワイにて療養生活を送る。このあいだ、雑誌『世界之日本』を発刊している。
1897年(明治30年)8月24日、肺結核のため西ヶ原の本邸(旧古川庭園)にて死去[14]。享年54。墓所は鎌倉の寿福寺。
[編集] 著作・書翰
- 1892年から執筆を開始した「蹇々録(けんけんろく)」は、日清戦争、三国干渉の処理について記述したもので、外務省の機密文書を引用しているため長く非公開とされ、1929年に初めて公刊された。明治外交史上の第一級史料である。
[編集] 関連項目
[編集] エピソード
- 後妻の陸奥亮子は「鹿鳴館の華」「在米公使館の華」と呼ばれた美貌の女性である。
- 陸奥宗光が、藩閥打倒、議会民主主義の未達成を嘆きつつ死んだ時、西園寺公望は「陸奥もとうとう冥土に往ってしまった。藩閥のやつらは、たたいても死にそうもないやつばかりだが・・・」と言って、周囲の見る目も痛わしいほど落胆したという。
- 陸奥の言葉・・・「政治はアートなり。サイエンスにあらず。巧みに政治を行い、巧みに人心を治めるのは、実学を持ち、広く世の中のことに習熟している人ができるのである。決して、机上の空論をもてあそぶ人間ではない」
[編集] 脚注
- ^ 勝海舟と坂本の知遇を得た陸奥は、その才幹を発揮し、坂本をして「二本差さなくても食っていけるのは、俺と陸奥だけだ」と言わしめるほどだったという。陸奥もまた龍馬を「その融通変化の才に富める 彼の右に出るものあらざりき。自由自在な人物、大空を翔る奔馬だ」だと絶賛している。
- ^ このとき、同時にこの職に任命されたのは長州出身の伊藤博文、井上馨、薩摩出身の五代友厚、寺島宗則、中井弘の5人であった。ここでかれはイギリス公使パークスの遭難事件などの対外事件を処理している。
- ^ のちに陸奥はこのことを「粗豪にして身を誤ること三十年」(『山形繋獄』)と詩によんでいる。
- ^ 『日本及日本人』所載「雲間寸観」によれば、林・大江は暗殺すべき人物として秘簿をつくった。そのなかには大隈重信の名もあったが、陸奥はこれを一見して、一人重要な人間が抜けているといい、自ら筆をとって伊藤博文の名を加えたという。林は大江は、陸奥は平生より伊藤と親しいから、志成った場合は伊藤を推してもよいだろうと考えていたので、陸奥が伊藤の名を加えたのを見て、ひそかに驚いたという。
- ^ 山形監獄に収容された陸奥は、せっせと妻亮子に手紙を書く一方で、自著をあらわし、イギリスの功利主義哲学者ベンサムの著作の翻訳にも打ち込んだ(出獄ののちの1883年にベンサムの『Principles of Moral and Legislation(道徳および立法の諸原理)』は『利学正宗』の名で刊行された)。山形監獄が火災にあったとき、陸奥焼死の誤報が流れたが、誤報であることがわかると、1878年伊藤博文が手を尽くして当時もっとも施設の整っていた宮城監獄に移させた。
- ^ 1884年にロンドンに到着した陸奥は、西洋近代社会の仕組みを知るために猛勉強した。ロンドンで陸奥が書いたノートが今も7冊残されている。内閣制度の仕組みはどのようなものか、議会はどのように運営されていのか、民主政治の先進国イギリスが、長い年月をかけて生み出した知識と知恵の数々をさかんに吸収したあとがみられる。また、ウィーンではシュタインの国家学を学んだ。
- ^ 閣僚中、唯一の衆議院議員であった。陸奥の入閣には農商務大臣としてより、むしろ第一回帝国議会の円滑な進行(いまでいう国会対策)が期待された。このとき農商務大臣秘書であったのが腹心原敬である。
- ^ 試験採用による職業外交官の制度が確立したのは陸奥の外相時代である。
- ^ 不平等条約改正に最も反対していたイギリスが態度を軟化させた背景にはロシアの極東進出に対する懸念があった。イギリスの条約改正交渉には「改正後も函館の貿易港としての使用を認めること」という交渉条件が付けられていた。陸奥は、函館の条件さえのめば条約改正に応じるに違いないと判断し、ロンドンの青木公使宛に「必要あらば、条約改正後も、函館を貿易港と定めても苦しからず」と打電する。返電はイギリスが条約改正交渉に応じるというものだった。
- ^ 以後、アメリカ合衆国とも同様の条約に調印、ドイツ、イタリア、フランスなどとも同様に条約を改正した。陸奥が外務大臣の時代に、不平等条約を結んでいた15ヶ国すべてとの間で条約改正(治外法権の撤廃)を成し遂げた。
- ^ この開戦外交はイギリスとの協調を維持しつつ、対清強硬路線をすすめる川上操六参謀次長の戦略と気脈を通じたもので「陸奥外交」の名を生んだ。
- ^ 高田早苗によれば、陸奥の伊藤に対する態度がいかにも恭しく、あたかも属僚が長官に対して意見を申し述べる風だったという(『半峯昔ばなし』)。また、李鴻章との談判のとき、陸奥の娘が大病で危篤状態だったが陸奥は「談判の済むまでは家のことはいってよこすな」と言い置いて来たが、陸奥の顔色の冴えないのを伊藤が怪しんで問いただしたので事実を語った。伊藤は驚いて、「あとはおれが引き受けたから君は帰り給え」といった。それで陸奥は帰ったが幸いにして娘は命を取りとめた。しかし、それから間もなく亡くなったという(『平沼騏一郎回顧録』)。
- ^ 現在は古河電気工業が所蔵管理
- ^ 陸奥の最後の枕頭を見舞った親友中島信幸に「僕は妻子に別るるもあえて悲しまず、家事また念頭になし、ただ政治より脱することを遺憾とす」と述べた。心底からの政治好きだったのである。
[編集] 参考文献
- 岡崎久彦『陸奥宗光』(上・下)(PHP研究所 1987年)
- 岡崎久彦『陸奥宗光とその時代』(PHP研究所 1999年)「外交官とその時代」シリーズ第1巻
- 萩原延寿編『陸奥宗光』(中央公論社 1973年)
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