秋月悌次郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
秋月 悌次郎(あきづき ていじろう、1824年(文政7年) - 1900年(明治33年)1月5日)は、江戸時代後期、幕末の会津藩の藩士。父は丸山胤道で次男。名は胤栄。字は子錫、号は韋軒。明治維新後は、胤永(かずひさ)を正規の名前とした。
会津若松城下に生まれる。丸山家の家督は長男の胤昌が継ぎ、悌次郎は別家として秋月姓を称する。藩校の日新館に学び、1842年に江戸に遊学し、私塾や昌平坂学問所などで学び、諸国を渡る。
藩主松平容保の側近として仕え、1862年に容保が幕府から京都守護職に任命されると、公用方に任命され、容保に随行して上洛。遊学時代には薩摩へも渡り、会津と薩摩藩が結託した宮中クーデターである八月十八日の政変では藩兵を率い、実質的指導者として活躍した。佐幕派の反対を受け、65年には左遷されて蝦夷代官となる。
戊辰戦争でも軍事奉行添役を命じられ、各地に出陣しているが、専ら裏方として活動し戦場で戦う機会は無かった。降伏の際には使者を務める。会津藩軍事面の重要な役に就いていた事もあり猪苗代において謹慎し、明治元年(1868年)に会津戦争の責任を問われ修身禁固刑となるが、明治5年(1872年)に特赦によって赦免される。同年新政府に左院省議として出仕し、第五高等学校(熊本大学の前身校)など各地の学校の教師となる、五高では小泉八雲と同僚であった。晩年は東京に住み、明治33年(1900年)、74歳で死去。
小泉八雲は、秋月を称して「まるで神の様な人であった」と称した
墓所は東京都港区の青山霊園。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 司馬遼太郎「ある会津人のこと」、『オール読物』第29巻第12号、1974年12月。