立原啓裕
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立原 啓裕(たちはら けいすけ、男性、本名:小西 啓裕こにしけいのすけ 1954年1月12日 - )は、日本の俳優、タレント。
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[編集] 来歴・人物
大阪市北区生まれ、奈良県桜井市育ち。関西圏を中心に、テレビ・ラジオで活躍している。
[編集] 劇団四季に入団
桃山学院高等学校、大阪芸術大学芸術学部放送学科を経て、1977年に劇団四季に入団し、浅利慶太に師事する。厳しい修行をしたが、ダンスが苦手だった為、夜中一人でダンスの特訓をし、浅利にそれが認められ入団三年目で、初の舞台を踏む。以後300本を超える舞台を経験したが、1982年に退団した。青年時代はかなりの美少年であった。
[編集] 退団後・そしてラジオDJに
退団後すぐに時代劇「暴れん坊将軍」にゲスト出演し、同学年の松平健と最初で最後の共演を果たす。しかし、劇団時代のリアクションの演技がスタッフ等の目を引き過ぎてしまいカルチャーショックを受ける。同年にはKBS京都「ハイヤング京都」でラジオDJとしてデビューし、ラジオ大阪「決定!全日本歌謡選抜」のパーソナリティに抜擢され、独特の口調で、若者や中高校生や大学生やアイドルファンから人気を得る。
[編集] 劇団を旗揚げ・そして解散
1985年に、妹尾和夫の発意により、升毅と牧野エミの3人で、演劇ユニット「売名行為」を結成し座長になり、関西の演劇層に一大ムーブメントを作り人気を博したが1991年解散。(解散の原因は、升との間で演劇の価値観を巡って対立があった事にある。)
[編集] タレント活動・レギュラー番組本数の日本新記録樹立・最多記録保持者
1987年には、テレビ大阪「町ごとドンドン生放送」に出演、以後テレビ・ラジオの出演数が増え、1989年には「探偵!ナイトスクープ」(ABCテレビ)の探偵や、「立原啓裕の昼はおまかせ」(ABCラジオ)メインパーソナリティ、「OBCブンブンリクエスト」(ラジオ大阪)など、レギュラー16本と絶頂を極め、関西ローカルながらレギュラー本数日本新記録の鉄人記録を樹立した。現在もその記録は破られていない。
余談だが、同じ関西出身で俳優・タレントの内藤剛志も1995年から6年半に渡り27クール連続で連続ドラマ出演の日本新記録を樹立しており、未だにその記録は破られていない。また、タレントで元吉本新喜劇の木村進も全盛期に60本の番組に出演したこともあり、鉄人である。
[編集] 過酷なスケジュールとの戦いで倒れた後・・・
しかし、過酷なスケジュールとの戦いと多忙がたたり、2ヶ月の病気・療養生活を余儀なくされ、以後はレギュラー本数を減らすとともに、「メディカルタレント」を宣言し、日本医学ジャーナリスト協会にも所属、全国にも講演活動も行うようになった。
なお、1989年7月以来探偵として出演してきた「探偵!ナイトスクープ」では、後半は特に「病弱キャラ」でいじられるなどで活躍し、新分野への挑戦を理由に2005年4月16日放送分をもって探偵として16年間の出演を終了したが、2006年7月から顧問として復帰している。かつて本番組内で、「薬(錠剤やカプセル)を見ただけで中身の成分を言い当てられる」という特技を披露したことがある。ちなみに病弱キャラの裏返しなのか、健康器具マニアである事がたかじん胸いっぱいで明らかにされている。
[編集] そして、現在
2006年4月からは、テレビ(関西テレビ「痛快!エブリデイ」、毎日放送「ちちんぷいぷい」、サンテレビ「金曜いただきッ!」)ラジオ(ラジオ関西「ラジ関アフタヌーン立原啓裕です」)などの放送をはじめ、コミュニケーション論を中心にした講演活動も人気を博し、また、大阪芸術大学グループ客員教授にも就任した。
余談だが、彼の個人事務所には一時期、当時関西ローカルのタレントであった声優の松岡由貴が、ラジオでの共演をきっかけに在籍していた事がある。
[編集] 外部リンク
カテゴリ: 日本の俳優 | ローカルタレント | 1954年生 | 探偵!ナイトスクープ