ノート:第一次世界大戦
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従来の歩兵による突撃では大量の兵士を浪費するだけになった
浪費 ですか…
この戦争において始めて投入された兵器(飛行機・戦車・潜水艦等)も多く、それまでに行われた国家間の戦争に比べ、死傷者の数が飛躍的に増加した。また初めて毒ガス兵器が使われた戦争でもあった。
よくある間違いですが、飛行機や潜水艦は第一次世界大戦が初ではありません。それと「始めて~。初めて~」となってます。
戦争の始まりは銃を持った兵が騎馬に乗って突撃するといった戦国時代さながらの戦争であったが
「戦国時代」が日本の戦国時代のことなのであれば、そういうことはありませんでした。たしかに一般にはそういうイメージがあるので、イメージでならば間違ってはありませんが事実ではありません。
特に戦車の出現が革命的で、負けたドイツ側は戦後の再軍備前から密かに戦車の開発と運用を研究していた。それが第二次世界大戦で実行されることになる。
なんかちょっと日本語が変な気が。それと、密かに研究されていたのは戦車だけでなく文中に挙げられている他の何れでもそうですよねぇ。まぁ、戦車の登場がエポックメイキングなのは事実ではありますが、外のよりも更に突出しているのかどうかは論を避けておきます。
オーストリア・ハンガリー帝国はハプスブルク家による君主制であったが、サラエボ事件に対しベルヒトルト外相の局地戦か開戦せずに済むとの判断を入れ、7月23日セルビア政府に対し最後通牒を実施。セルビアの条件付き承諾に対し納得せず、7月25日国交断絶に踏み切る。躊躇する皇帝と軍部の反対を押し切る形で7月28日宣戦布告。
日本語が変な気が。主語が分かりにくい。あと、軍部って反対していないのでは?参謀総長のコンラート・ヘッツェンドルフなんて実に好戦的でしたが。
ドイツ帝国 は独墺同盟の関係から相談されたオーストリア・ハンガリー帝国に対しセルビアへの強硬論を説き、オーストリア・ハンガリー帝国を支援。次いで、ロシア帝国の総動員令に対して小モルトケが暴走し「シュリーフェン・プラン」に基づき8月1日総動員を発令、プラン実行の必要からベルギーに対し無害通行権の要求を開始するなど、3大国を相手にした戦争の準備を開始。翌日には対ロシア宣戦布告し、第一次世界大戦開戦。
最初のところは日本語がちょっと変な気が。小モルトケの暴走とは?
日英同盟によりイギリスと同盟関係にあった日本(大日本帝国)は、イギリス・フランスから要請され連合国側として参戦
果して要請されたのか… まぁ、日本はそれを装ってましたが。
--Pochi 2004年10月24日 (日) 16:50 (UTC)
- 要請はあったはずですが、それは山東省と南洋諸島にいるドイツ軍を代わりに叩いてくれってものです。
ですが、これを要請したイギリス外交当局は世論から非難されたはずです。--210.196.189.19 2006年1月13日 (金) 09:34 (UTC)
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[編集] 2005年11月の編集保護
荒らしによって編集保護になる。編集1&編集2&編集3を参照。--経済準学士 2005年12月18日 (日) 13:14 (UTC)
[編集] 第一次世界大戦はヨーロッパの世界における優越的立場を揺るがしたか
221.189.85.229さんが加筆された内容に疑問を感じました。
- また、この戦争でヨーロッパは戦勝国・敗戦国を問わず膨大な人的・経済的資源を消耗し、16世紀の大航海時代以来続いていたヨーロッパの世界における優越的立場は大きく揺るがされることとなった。--- 本文 2006-04-09 03:11:34(UTC) の版より
例えば中東においては第一次世界大戦の敗戦国であったオスマン・トルコの領土がヨーロッパ勢力によって分割され、現在のイラク、ヨルダン、イスラエルがイギリスの、シリア、レバノンがフランスの植民地となっております。アフリカにおいては敗戦国だったドイツの植民地が戦勝国に奪われただけですね。アジアの植民地も独立はすべて第二次世界大戦後です。経済面を見ても例えばインド植民地と宗主国イギリスの貿易は第一次世界大戦が始まるとすぐに貿易額にして3/4にまで縮小しますが、第一次大戦後終了直後に大戦前の水準に戻り、1924年には1917年の1.5倍に達しています。
221.189.85.229さんの加筆内容を支持するデータを教えていただけないでしょうか。---Redattore 2006年4月8日 (土) 18:40 (UTC)
- 一週間ほど経過しましたので、
本文を元に戻しました。本文を戻した上で、ノートの要約を加えました。---Redattore 2006年4月14日 (金) 22:18 (UTC) ---Redattore 2006年4月14日 (金) 22:25 (UTC)
221.189.85.229さんへ。対立する意見がある際に、ノートで議論せずに本文を書き換えるのはあまり好ましくないと思いますが。第一次世界大戦後、シティからウォール街に中心地が移ったことを根拠として加筆されておりますが、数値の裏付けはあるのでしょうか。ヨーロッパ諸国とアメリカ合衆国の工業生産指数の推移を抑えた上での議論なのでしょうか。貿易額の変化はいかがですか。いずれの数値もヨーロッパ諸国が第一次世界大戦後に最大値に達しております。---Redattore 2006年4月23日 (日) 14:42 (UTC)
- オスヴァルト・シュペングラー以外の記述を戻しました。---Redattore 2006年5月2日 (火) 06:21 (UTC)
7/27に編集をした者です。
>しかしながら第一次世界大戦はヨーロッパ内部の勢力構造を変化させただけだとも言える。アジア、アフリカに対する植民地支配はかえって強化されており、世界秩序自体を変えるところまでには至らなかった
世界秩序は変わったと「私は」思います。何よりアメリカの参戦無しにはヨーロッパの内戦が解決できなかった、というのがヨーロッパ中心の世界史の終焉を意味していたと思いますからね。 確かに客観的データとしてヨーロッパの復興や委任統治領の増加があったのは事実ですが、エジプトの(名目上であるにしろ)独立、アフガンの独立などもあり、一概に「植民地支配がかえって強化された」というのは違う気がします。
どちらにしろこれは事実というより意見表明ですので、どっちの立場にしろ百科事典にふさわしい記述とは言えないと思います。中間を取って
もっとも、ヨーロッパ中心の世界秩序が変わったかどうかについては、意見が分かれている。
とするのが妥当だと思われます。--60.37.155.110 2006年7月29日 (土) 01:55 (UTC)
- 書き込みありがとうございます。ノートで内容を調整できると助かります。私としては「大戦の結果(ヴェルサイユ体制)」の記述が不足していると感じます。個々の戦闘の記述も必要ですが、第一次世界大戦がその後の歴史にどのような影響を与えたかも、この項目には欠かせない内容だと考えます。したがって、間を取って「もっとも、ヨーロッパ中心の世界秩序が変わったかどうかについては、意見が分かれている。」とするよりも、他の世界との政治的、経済的な関係の変化をしっかり書き込むことが必要でしょう。影響力が大きくなった、小さくなったという結論に導くためには、どのような変化があったのかをまとめることが必要です。ノートの上の方にも書きましたが、貿易など経済関係の変化は私でも多少は記入できます。60.37.155.110さんにも書き込んでいただけると助かります。---Redattore 2006年7月29日 (土) 09:27 (UTC)
[編集] 分割提案
エーとですね、Template:日本の歴史を貼っているものなんですが、もしよろしければ”第一次大戦”から日本史的見地の”第一次大戦中の日本”という記事を分割したいのですがどうでしょうか?分割するより並列した方がいいでしょうか?--Forestfarmer 2006年8月19日 (土) 11:12 (UTC)
[編集] 質問です。
WAKABAYASIと申します。 ロシア革命の文中に【女帝アレクサンドラ】 とありますが、アレクサンドラはニコライ二世と共同帝位にあったのでしようか? 10月26日(木)17:56(UTC)
[1] >二次マルヌ会戦が始まった。これに対抗して行った同盟国軍の反撃は、この戦争初の同盟国の成功した攻撃を特徴づけた。
協商国の間違いでは?--60.36.194.246 2006年11月15日 (水) 13:57 (UTC)
[編集] 参考書の節
参考書の節のところに小説はどうなんでしょうか。参考書ではないと思いますが。--Kuty 2007年1月17日 (水) 11:48 (UTC)