粗忽長屋
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『粗忽長屋』(そこつながや)は、古典落語の演目である。往来の死体を見て自分の友人だと確信した男と、まだ生きているその友人本人が巻き起こす奇妙な騒動を滑稽に描いた喜劇。五代目古今亭志ん生、七代目立川談志、五代目柳家小さん等の十八番。冷静に考えると極めて荒唐無稽な内容であるため演者には聞き手を噺に引き込み我にかえらせないだけの力量が必要となる。
注意 : 以降に、作品の結末など核心部分が記述されています。
[編集] 物語
ある早朝、浅草観音を詣でにきた八(はち)は、そこで大勢の人が集まっているのを見つけた。そこには、身元不明の死人が横たわっていた。八が死人の顔を見てみると、その死人は友人の熊であった。唐突な出来事に八は落胆するも、自宅の長屋にいる熊を、この死体を引き取らせるために呼びに行くことにする。周囲の人間の制止も振り切り、八は熊の自宅に急行する。
八は熊に、浅草寺の通りで熊が死亡していたと告げる。全く心当たりの無い事をいきなり言われ、最初は笑い飛ばしていた熊も、八の説明を聞いて、やがて自分が死亡していたのだと考えるに至る。八は、あまり乗り気ではない熊を連れて、死体を引き取りに浅草寺の通りに戻る。
戻ってきた八と熊に、周囲の人達はすっかり呆れてしまう。どの様に説明しても二人の誤解を解消できない。熊はその死人の顔を見て、間違い無く自分であると確認するのだった。死体を腕で抱いて涙を流す熊とそれを運ぼうとする八を、周囲の人は全く制止できない。
いよいよ死体を持って帰る段になった時、涙する熊は一つの疑問を抱き、その疑問を八にぶつける。「抱かれているのは確かに俺だが、抱いている俺はいったい誰だろう?」
[編集] 粗忽と狂気
「粗忽」とは、そそっかしい状態を意味する。常識外れなまでにそそっかしい人々を、決して意地悪な目線で虚仮にして描くのではなく、終始ユーモラスに楽しく描いている。人の死を巡る騒動だが、決してブラック・コメディではない。
目の前の生きている人間に対し、「貴方は既に死亡していた」と報告する事も、目の前にある死体を見て、自分の死体だと確認する事も、現実には絶対に起こり得ない。しかし主人公の二人は断じて発狂している訳ではなく、そそっかし過ぎるが故に、騒動を起こしてしまうのだ。
変な人達に周囲がなすすべ無くただただ振り回されるという喜劇ではあるが、発狂した人がひたすら暴れまくる物語(例えば映画『博士の異常な愛情』)とは確実な差異が有る。
[編集] 主観性
立川談志は、主観性が余りに強すぎたが為に自分自身が死亡していたか否かと言う事すらも、正しく判断できなかったのだとしている。このため、談志をはじめとする落語立川流では「主観長屋」の題で演じられる。