織田信久
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織田 信久(おだ のぶひさ、1643年(寛永20年) - 1714年8月17日(正徳4年7月8日))は、上野小幡藩の第3代藩主。織田高長の四男。本姓は平、諱は信久。仮名 (通称)は左門、内記。官位は従四位下侍従、越前守。
正室は稲葉信通の娘。子は織田信盛(長男)、織田信知(次男)、織田信就(三男)、浅田信允(四男)、娘(大村純尹正室)の4男1女。ただし、「御代々様・御連枝様方御事跡」によれば、長男・信盛、次男・信知、三男・信就、四男・信允(浅田姓)、長女・菊姫、次女・長姫(大村純尹正室)の4男2女という。
慶安3年9月1日(1650年)、先代藩主・織田信昌の末期養子として、家督を相続した。同年12月28日将軍徳川家光に御目見をする。明暦元年12月29日(1655年)従五位下に叙任し、内記を称する。後に従四位下侍従に昇進する。万治2年(1659年)6月13日藩主として初めて帰国をする許可を得る。寛文5年4月17日(1665年)江戸城紅葉山における八講会に実兄織田長頼と予参を務める。これにより、国主に準じた待遇を受けていたことがうかがわれる。
藩政は64年の長きにわたった。この間に信久は新田開発や治水工事に尽力して藩政を安定化させたが、これをいいことに年貢増徴を5割も行なった上、助郷などによる領民の負担を増やしたため、やがて領民の間から不満が起こり、財政も破綻の兆しを見せ始めたという。
正徳4年7月8日(1714年)、72歳で死去し、後を三男・信就が継いだ。法号は凌雲院嶮巌維峻。なお、初代藩主信良は領内の織田家の菩提寺を宝積寺と定めたものの、三代藩主信久は崇福寺を再興し、同寺に変更した。宝積寺の住職交代の儀式に際しての織田家の席次に不満を持っていたようである。宝暦8年3月(1758年)崇福寺は焼失したものの、織田信雄から信富まで織田家七代の墓は現存している。
なお、『土芥寇讎記』には「信久、武道ヲ専ラトシ、軍者ヲ招キ、兵術ヲ聞フ。文道ハ学ブニ似テ、誠ニ非ズ。偽リテ外ヲ飾ルト聞フ。行跡寛々ト見ヘテ、威儀ヨケレドモ、内心孟侫奸ノ気味有リ」とあり、当時の大名の中での評価は低い。
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