織田信休
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織田信休(おだ のぶやす、延宝6年8月17日(1678年10月2日) - 享保7年11月29日(1723年1月5日))は江戸時代の大名。大和国宇陀松山藩主、丹波国柏原藩主。宇陀松山藩主・織田信武の長男。生母は徳川光友の養女智姫。初名は信恒。別名は信辰。通称は右近。官位は従五位下壱岐守、山城守、近江守。
延宝6年(1678年)8月17日、江戸において誕生。元禄3年2月15日将軍徳川綱吉に御目見する。元禄6年12月23日従五位下壱岐守に叙任する。元禄8年(1695年)2月5日、家督を相続する。ただし、前年父・信武がお家騒動「宇陀崩れ」で自殺したため、8千石を減らした上での転封を命じられた。同年4月10日、丹波氷上郡、何鹿郡、天田郡内で2万石を与えられることになった。こうして織田家は、大和宇陀松山藩2万8千石から丹波柏原藩2万石に転封になった。元禄11年4月21日藩主として初めてお国入りする許可を得る。
織田信休は、柏原村の亀屋田助邸を仮御殿、井尻屋文七邸を仮公儀所として藩政をスタートさせた。正徳4年(1714年)5月27日にようやく柏原藩陣屋が完成し、落成式を行った。なお、転封となった信休は、従来の国主並の家格を返上した。官位もそれまでの当主は従四位下侍従まで昇進したのに対して、以降の当主は従五位下止まりであった(織田信憑を除く)。
宝永元年(1704年)6月27日大和川付替えの御手伝普請を命じられる。信休はたびたび現場の視察を行っている。正徳2年(1712年)2月2日江戸の大名火消(方角火消)を命じられる。享保7年(1722年)11月29日、柏原において死去、享年45。柏原・徳源寺に葬られた。なお、明治維新後、同寺は廃寺となり、現在は織田家廟所となっている。
正室はなし。次男信朝、三男信旧(織田信朝養子)、四男長卿、四女(公家柳原光綱室)ら四男七女の子女あり。
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