徳川光友
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
徳川 光友(とくがわ みつとも、1625年8月31日(寛永2年7月29日)-1700年11月26日(元禄13年10月16日))は、尾張国尾張藩の第2代藩主。父は初代藩主・徳川義直(光友は長男)。母は吉田甚兵衛の姉・歓喜院。正室は徳川家光の娘・霊仙院(千代姫)。側室は丹羽光重の娘・樋口氏・村尾氏、飯尾氏など11人。子に徳川綱誠(長男)、松平義行(次男)、松平義昌(三男)、松平友著(十一男)、貴姫(三女、浅野綱長室)、直姫(徳川家綱養女)らがいる。官位は従二位、権大納言。
寛永2年(1625年)7月29日、名古屋にて生まれる。幼名は五郎八、五郎太。初名は光義。慶安3年(1650年)、父の死去により家督を継ぐ。寛文12年(1672年)に名を光友と改めた。藩政においては寺社奉行制度や評定所を設置し、官制の整備を図った。また、防火制度や軍備増強、林業制度の確立も行なうなど、藩政の基礎を固めた。また、美濃の高須藩にも別家を立てている。だが、義直にとっては一人息子であったため、甘えられて育った光友は苦労知らずで、大森寺や熱田社などの多数の寺院を修築したり、藩邸が焼けてその修理費にと、支出が相次いで財政難が起こった。元禄6年(1693年)4月25日、家督を長男の徳川綱誠に譲って隠居したが、元禄12年(1699年)綱誠に先立たれ、元禄13年(1700年)10月16日、76歳で死去した。
武芸や茶道、書に優れた人物であったが、苦労知らずの一面があったため、世評では「優長なお育ち」と蔑まれた。
[編集] 官職位階履歴
※日付=旧暦
- 1630年(寛永7)5月3日、従五位下に叙し、蔵人に補任。
- 1633年(寛永10)9月5日、従四位下に昇叙し、右兵衛督に転任。
- 1640年(寛永17)3月4日、参議に補任し、右近衛権中将を兼帯。7月11日、従三位に昇叙。参議・右近衛権中将如元。
- 1650年(慶安3)6月28日、尾張国名古屋藩主となる。
- 1653年(承応2)8月12日、正三位に昇叙し、権中納言に転任。
- 1672年(寛文12)11月1日、名を光友と改める。(それまでは、光義と名乗る。)
- 1690年(元禄3)5月4日、権大納言に転任。5月11日、従二位に昇叙。権大納言如元。
- 1693年(元禄6)4月25日、家督(藩主)を息子綱誠に委譲し、隠居。
[編集] 演じた人物
[編集] 関連項目
|
|