織田信時
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織田 信時(おだ のぶとき、?-弘治2年(1556年)6月)は、織田信秀の六男(又は七男)で、織田信長の異母弟にあたり、織田信広の同母弟とされる。官位は安房守。幼名は喜蔵。名は秀俊とも。織田信康の養子となる。
天文24年4月20日(旧暦)(1555年5月10日)、織田信長は清須城の奪取に成功し、大功を挙げた叔父の守山城主織田信光に那古野城を与えた。信光のあとに守山城主となったのが織田信次であったが、6月26日、守山城下龍泉寺近くの庄内川ほとりにおいて、信次は馬の遠乗りをしていた信長の六弟織田秀孝を誤って射殺し、そのまま逐電した。守山城は攻め寄せてきた信長及び織田信行の軍に取り囲まれたが、佐久間信盛の計略により、城内に残った家臣のうちの角田信五、坂井喜左衛門が寝返って信時の軍を引き入れたため、信時はそのまま守山城主となった。
ところが、坂井喜左衛門の息子孫平次が信時の若衆となって異例の出世をしたため、それを嫉んだ角田新五は、弘治2年(1556年)6月のある日に城内の塀・柵の普請と偽って軍勢を引き入れた。追い詰められた信時は切腹して果てた。