菅沼定村
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菅沼 定村(すがぬま さだむら、大永元年(1521年) − 弘治2年(1556年)8月4日)は、戦国時代の武将。菅沼定則の長男。野田菅沼氏2代目。幼名、竹千代。通称、新八郎。織部正。正室は深溝松平忠定の娘。菅沼定盈は長男。
天文13年(1544年)1月、父の隠居により家督を継ぐ。同年4月、領内に母の菩提寺・能満寺を建立する。
今川氏への忠勤に励んでいた弘治2年(1556年)、奥平貞勝の今川氏離反に本家・田峯菅沼氏も加担。それぞれ、本拠に立て籠もった。自身は離反に加担しなかったが、三右衛門・伝一郎ら弟2人が本家に加わった。この造反には、駿府から東三河の諸将へは鎮圧が命じられたため、同年8月4日、貞勝に与する額田郡雨山へ攻め入った。ところが、定村の率いる野田菅沼軍だけが突出。後続の無いままに先立って、戦端を開いてしまう。しかも、防衛側から放たれた矢によって、馬上から下知する定村は左喉から耳を貫かれ、落馬絶命。大将を失った野田勢は、新三左衛門・半五郎ら定村の弟2人による立て直しも空しく、壊滅した。
戒名は、翰照院殿慶岩道雲居士。母の能満寺に合葬されると、寺号は道雲寺に改められた。
[編集] 作品
- 小説
- 風は山河より(宮城谷昌光)