菅沼定盈
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菅沼 定盈(すがぬま さだみつ、天文11年(1542年) − 慶長9年7月18日(1604年8月13日))は、戦国時代の武将。菅沼定村の長男。野田菅沼氏3代目。幼名、竹千代。通称、新八郎。織部正。正室は長沢松平政忠の娘。後室は桜井松平家次の娘。
弘治2年(1556年)、父の戦死により家督を継ぎ、今川氏への忠勤に励む。永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦い以降は松平氏に帰属。従兄弟の西郷清員と共に、家康への忠節を尽くし続けた。
ところが転属当初は、義元を失った今川氏であっても東三河なら支配力を及ぼせたために、永禄4年7月29日(1561年)、今川方から野田城を攻囲された定盈たちは抗いきれず、勧告を受け入れて開城降伏。隣郡八名郡の親戚・西郷氏の許に逃れて雌伏する。
すると、雪辱の機は早くに訪れ、翌永禄5年6月2日(1562年)、今川氏から居城・野田城を夜襲。城代・稲垣半六郎を討ち果たし、残存兵を退散させたため奪回できた。ただし、野田城の損壊は軽微では済まず、防御力の劣る大野田城を手直しした上で仮本拠と定め、同時に野田城の修築にも努めている。
三河から今川勢を一掃し、さらに遠江国攻め入りを画策する家康の意向を酌み、永禄11年(1568年)には、遠江侵攻に先立って敵方の懐柔工作に携わり、遠江引佐郡井伊谷の同族・菅沼忠久の調略に成功している。その後、同年12月からの遠州侵攻に従軍、井伊谷の南方・刑部城攻略で功を挙げた。
家康に従い続けたお陰で、今川氏の圧力から解放された定盈ではあったが、元亀2年(1571年)以降、今度は甲斐武田氏による三河侵攻が活発化。この春、信濃から南下してきた武田氏配下・秋山信友は、菅沼本家の田峯菅沼氏を降らせ、さらに南進。このため設楽郡竹広において合戦に及んだ(竹広合戦)。定盈は隣郡八名郡の親戚・西郷氏や亡父・定村の妹婿となった設楽貞通と共闘。懸命の防戦により、一時的に武田軍を退ける事に成功する。勝ちきれなかった秋山は、力押しの三河切り崩しから方針を転換。田峯菅沼氏を使って菅沼氏の各支族に降伏を促したが、定盈の野田菅沼氏だけが拒絶。秋山に信豊率いる主力が加わった武田軍から標的にされると、同年4月28日、未だに大野田城を仮本拠としていた定盈一党は本格攻勢を受け、防戦も出来ずに退散させられる。そればかりか、吉田城まで攻囲、威圧する武田軍により、奥三河を我が物顔で蹂躙された。
元亀4年(1573年)正月、前年末の三方ヶ原の戦いに勝利した武田信玄が再び来攻。野田城の戦いである。この時の定盈は、防備を強化した野田城に立て籠り一ヶ月の抵抗を示したが、水の手を断たれたために、2月15日に開城降伏して捕らわれた。武田軍は、この攻城戦に勝利しながら西上を断念し、信濃国を経由して帰国の途についている。同年3月の人質交換で家康への帰参が叶った定盈は、天正3年(1575年)5月、長篠の戦いに参戦。同月21日の早朝、酒井忠次率いる鳶ヶ巣山奇襲隊の一員として戦功を挙げ、武田軍への雪辱を果たしている。
関東への移封では、上野国阿保に1万石で配される。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いでは、江戸城留守居役。戦勝によって伊勢国長島2万石に加増転封。慶長9年(1604年)7月18日に死去。戒名、勝徳院殿長翁宗堅大居士。
子女12人に恵まれた子福者ではあるが、竹千代の幼名を継がせた長男には先立たれている。そのため、2男の菅沼定仍が家督を継いでいる。定仍の他には、主膳定成、定芳、主殿定官など。
菅沼一族の支流ながら、武田軍に捕らわれる事が有っても、一度も家康に弓を引く事が無かった定盈の功績を高く評価され、徳川政権下での子孫は同族の中で最も繁栄している。
[編集] 作品
- 小説
- 風は山河より(宮城谷昌光)
[編集] 関連項目
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