菅沼定則
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
菅沼 定則(すがぬま さだのり、? − 天文16年(1547年)?2月14日)は、戦国時代の武将。菅沼定忠の3男。菅沼定広の弟。野田菅沼氏初代。幼名、竹千代。通称、新八郎。織部正。不春と号す。正室は奥平貞昌の養女。菅沼定村は長男。長女は隣郡・八名郡五本松の西郷正勝に嫁している。
家伝「菅沼家譜」に因れば、永正2年11月1日(1505年)、設楽郡の支配者であった富永氏から後嗣を望まれたという。総領家田峯菅沼氏を継ぐ長兄定広は論外、普通なら次兄へ話が持ちかけられるところだが、次兄は健康上に不安があったのだろう。のちに仏門に入っている人物であったという。そこで、3男の竹千代に御鉢が回ってきたのである。
ただ、富永の家中では反対派が頑なに拒んだ。理由は家格が下になるはずの菅沼側が、菅沼姓のまま入嗣する事を要求したという。田峯城を発した竹千代の一行ではあったものの、反対派によって富永居館への入館は絶望的。当面の間は、賛同派の邸内に新邸を構えて間借りする。その上、その邸内に専用の井戸まで新たに掘って、情勢好転の時節到来を期待した。ところが、説得工作は進展も無いまま越年。竹千代が富永居館へ入館できたのは2月11日であった。
永正5年正月(1508年)、富永居館から移転すべく野田城の築城に取り掛かる。この正月には元服を執り行い、竹千代は新八郎定則と改名した。同13年(1516年)、今川氏の遠州曳馬城攻略戦にも参戦、8月19日には陥落させた。その功により遠州の河合(磐田郡佐久間町川合)、高辺(高部?こちらは位置不明)の2郷を給された。同年12月になって、野田の新城が完成する。
享禄年間には、松平清康の東三河平定戦の一環・宇利城攻略戦に従軍するため、今川氏から転属。ただし、清康の死後は今川氏に再属した。
天文10年(1541年)8月、泰年全継禅師(医王寺(三河))より不春居士の号を受く。同13年(1544年)正月、嫡子・定村に家督を譲った。
没年が判明しないが、死没日だけは確かという。
[編集] 作品
- 小説
- 風は山河より(宮城谷昌光)