菊池能運
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菊池 能運(きくち よしゆき、1482年(文明14年) - 1504年3月1日(永正元年2月15日))は、菊池氏の第22代当主。第21代当主・菊池重朝の子。官位は従五位下。肥後守。
1493年、父・重朝の死去により12歳で家督を継ぐ。若年の能運を侮り相良氏と結託した隈部氏や、一族である宇土為光が反乱を起したが、武運は各地の豪族の支援を得て、奮闘しこれを征圧した。 しかし家中の動揺と離反は続き、宇土為光に内通を図る者まで現れた。身の危険を感じた武運は隈府城を離れ、玉名郡に入った。 1499年3月にも相良為続を八代城に攻め、為続を撃破し、八代を奪回している。
1501年、宇土為光が再度反旗を翻し、武運留守中の隈府城を攻撃し陥落させた。武運は肥後・筑後の兵をもって隈府城に迫り、同年5月、玉祥寺原において宇土勢と激突した。菊池方は奮戦するが戦況は不利で、菊池武安や黒木為実らの将が討死、数百人が戦死する大敗北を喫してしまう。何とか玉名まで逃れた武運は、有馬氏を頼った。 有馬氏に庇護されている頃に、名が「不運」に繋がるという理由で「武運」を「能運」に改名したと言われている。
1503年、有馬氏らの支援と、元は為光方であった相良長毎の協力を取り付けた能運は、兵を率いて玉名に上陸。この報に接した宇土為光も、兵を率いて高瀬に向かい能連と対決した。激戦の末、菊池能運は勝利を収め、元凶である為光を討つべく宇土城に逃れた為光を追撃。宇土為光は籠城戦の後、逃亡し筑後で捕らえられ、殺害されたとも、自害したとも。(高瀬の戦い)
能運はは隈部城に凱旋し、為光派の残党を討伐するなどしたが、高瀬の戦いでの傷が悪化。1504年2月15日に23歳の若さで死去した。正統鞠智城最後の城主。 法号は実相院儀天明綱。
菊池神社には能運の肖像画とされる「絹本著色伝菊池能運像(国の重要文化財)」が所蔵されている。
[編集] 能運の子孫
菊池能運は宇土為光の謀叛で肥後を追われた際に、家族を弟・重房に預け、日向国米良谷に逃亡した。能運の子は米良で成長したが後難を恐れ、菊池姓を隠し、米良重次(重為)と称し、米良に土着した。 その後、米良の領主として伊東氏や相良氏と結び、島津氏と争うなど、勇猛かつ政略にも長けた地方豪族として勢力を拡大し、江戸時代以後も子孫は代々大名並の扱いを受け幕末に至った。
明治維新後、菊池武臣の代に男爵を授けられ華族に列している。大名としては滅亡した名門菊池氏ではあるが、その流れを現代に伝えている。
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