菊田早苗
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菊田早苗 | |
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基本情報 | |
本名 | 菊田早苗 |
あだ名 | 寝技キング、寝技世界一 |
階級 | ライトヘビー級(パンクラス) ウェルター級(PRIDE) |
国籍 | 日本 |
誕生日 | 1971年9月10日 |
出身地 | 日本 東京都練馬区 |
現居住地 | 日本 |
スタイル | 柔道 |
戦績 | |
総試合数 | |
総勝利数 | |
KO勝ち | |
一本勝ち | |
判定勝ち | |
総敗北数 | |
KO負け | |
一本負け | |
判定負け | |
引き分け | |
無効試合 |
菊田早苗(きくた さなえ、男性、1971年9月10日 - )は、東京都練馬区出身の格闘家。GRABAKA所属。父は、「死刑廃止運動の父」明治大学名誉教授・弁護士の菊田幸一。特技はピアノ演奏。
目次 |
[編集] 来歴
学生時代に柔道を経験し、練馬東中学校在学中に中学柔道関東大会で優勝、明大中野高校在学中に高校柔道国体86kg級で優勝を果たす。
日本体育大学を中退し、UWFインターナショナルに入門するも、間もなく離脱した。 その後渡豪し、キックボクシングを習う。帰国後、アマチュアシュートボクシング全国大会重量級を制し、総合格闘技大会ザ・トーナメント・オブ・Jも連覇。
修斗、リングス、PRIDE参戦を経て、1999年6月、パンクラスに参戦。2000年にはパンクラスの中で外部勢力を集めた新勢力「GRABAKA(グラバカ)」を立ち上げた。
2001年4月、寝技世界一決定戦と言われるアブダビコンバットに参戦し、日本人初の優勝を果たし、「世界一の寝技師」の称号を獲得した。同年9月には美濃輪育久とのライトヘビー級王者決定戦を制し、第2代ライトヘビー級キング・オブ・パンクラシストの座に就く。
2002年8月、「UFO~LEGEND~ 『格闘技世界一決定戦』」のカードのひとつとしてアントニオ・ホドリゴ・ノゲイラと対戦するものの、15kgの体重差が災いしてか、ノゲイラの右ストレートの前にKO負けを喫した。同年12月には、GRABAKAジムをオープンした。巧みでハイレベルな寝技は「キク術」とも呼ばれている。
2005年12月31日にはPRIDE男祭りで、瀧本誠と対戦、判定勝利を収めるが、試合後にDSEの榊原社長から、試合内容について苦言を呈される。格闘技ファンの間では「一本こそ取れなかったが、菊田の高い技術を存分に発揮した良い試合だった」という意見と「膠着続きでつまらなかった」という意見に二分された。菊田自身は「自分の評価は10点。組技を知ってる人が見た場合は70点くらい。でもやっぱり一本がなかったので10点。」と納得と悔しさが入り混じったような微妙なコメントを残している。
一時期、雑誌「紙のプロレス」インタビューで、「天山広吉・小島聡はロクな死に方をしない、人間的にバカにした商売、騙して連れてきて金を取る」などプロレスラーやプロレスを貶める発言を繰り返し、高田道場やプロレスファンの怒りを買った。これには短期間だが、UWFインターナショナルや新日本プロレスに入門(一部関係者のコメントでは「体験入門程度のもの」)した際、人間関係で何かしらのトラブルが背景にあったということが定説となっている。後に、PRIDE.20で前述の経緯などから菊田に嫌悪感を持つアレクサンダー大塚との試合に勝利した後のリング上で「かつて批判したことはあるが、プロレスも格闘技も素晴らしいものだと思っている」と観客に訴えた。
[編集] 獲得タイトル
- 第2回ザ・トーナメント・オブ・J優勝(1996年)
- 第3回ザ・トーナメント・オブ・J優勝(1997年)
- 2001年、第4回 アブダビコンバット 88kg以下級 優勝
- 第2代パンクラスライトヘビー級王座
前優勝者 高阪剛 |
第2回ザ・トーナメント・オブ・J 1996優勝 1996年3月 |
次優勝者 菊田早苗 |
前優勝者 菊田早苗 |
第3回ザ・トーナメント・オブ・J 1997優勝 1997年3月 |
次優勝者 大会廃止 |
前優勝者 サウロ・ヒベイロ |
第4回アブダビコンバット77-87kg級優勝 2001年4月12日 |
次優勝者 サウロ・ヒベイロ |
前王者 山宮恵一郎 |
第2代パンクラスライトヘビー級王者 2001年9月30日-2003年11月30日 |
次王者 近藤有己 |