華キン
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華歆(かきん、157年-231年)は、三国時代の魏の重臣。字は子魚。華表の父。
はじめ何進に仕えて尚書郎となったが、後に何進が殺されて董卓の専横が始まると都から離れて袁術の家臣となる。このとき、袁術から予章太守に任命された。その後、孫策が江東を平定して独立すると、孫策の家臣となる。孫権にも仕えたが、このとき、曹操から呼び出されて中央へ赴き、曹操の家臣となり、侍中・尚書令などを歴任した。
建安十九年(214年)、曹操が献帝の皇后である伏皇后を廃そうとした際には、華歆は御史大夫の郗慮(ちりょ、郗は希におおざと)の副使として兵を率いて宮中に入り、壁の中に隠れていた伏皇后を引きずり出すという暴挙を行っている。この話は『後漢書』「伏皇后伝」に収録されているが、『三国志』「華歆伝」には見られない。これは陳寿が単なる逸話として採録しなかったとも考えられるが、当時の華歆の縁者に配慮した形で敢えて採録しなかったとも考えられる。しかし、高官がみずから皇后に手を出すという描写は信憑性が薄いともいわれている。
建安二十一年(216年)に曹操が魏王となると御史大夫に、曹丕が王位を継ぐと相国に任命され、曹丕の皇帝即位に尽力している。曹叡にも仕え、老齢を理由に太尉の位を親友の管寧に譲って隠居したいと嘆願したが、聞き入られなかった。太和五年(231年)、75歳で病死し敬侯と諡され、子の華表が爵位を継いだ。華歆の孫の華キョウは後漢の歴史をまとめた『漢書』を著した。
『三国志演義』では、魏の曹操の重臣として登場し伏皇后が謀反を起こしたとき、その髪をつかんで連行するなど、冷酷な人物として描かれている。また、曹丕が皇帝となって正式に魏が建国されると、位人臣を極めた権力におもねる悪人としての面が強調して描かれている。