孫権
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孫権(そんけん、 Sun Quan 182年 - 252年4月16日)は、中国、後漢末から三国時代の人物。字(あざな)は仲謀、呉の初代皇帝大帝(在位222年‐252年)。廟号は太祖。男性。孫堅の次男。孫策の弟。孫翊、孫匡、孫朗、孫夫人の兄。先祖は兵法家孫子(孫武)とされるが、信憑性は低いとされる。 長命で帝位に昇る相といわれた通り、三国志の君主の中で最も長命だった。子は主に孫登・孫和・孫休・孫亮・孫魯班など。
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[編集] 人物
孫権は角張った「あご」と大きな口、胴長短足で紫髯(赤ひげだとされる)の持ち主だったと云われる。また、『三国志演義』では碧眼(蒼い目)を持つとも描かれ、「江東の碧眼児」と呼ばれた。 父の孫堅も「仲謀は只者では無い、貴人の相をしている」と言い将来を期待していた。 呉の礎を築いた孫堅、「江東の小覇王」と恐れられた兄孫策を相次いで亡くし、わずか19歳で呉の君主となった。 外交策に長けており、変化自在な外交方針を中心に、呉建国を成功させた。
208年、曹操の南征時。帰順派(張昭文官等)が帰順を勧める中、抗戦派(周瑜・魯粛等)の意見を受け入れ、徹底抗戦の道を選び赤壁の戦いで曹軍を打ち破った。 臣下にも恵まれ、孫堅・孫策以来の旧臣である、周瑜、程普、黄蓋、韓当、朱治らの武官や、張昭、張紘などの文官に加え、諸葛瑾、魯粛、呂蒙、陸遜、朱然、潘濬、などの新世代の優秀な文武官も若い孫権を支え続けた。 その後、劉備が勢力を拡大して曹操を脅かす勢いになると今度は曹操に臣下の礼を示して恭順し、関羽を討って荊州を劉備から奪い取った。荊州を奪還するため東進してきた蜀軍を夷陵の戦いで破った後、早々に蜀漢と和を結んで魏に対抗するなど、時期を見計らってある時は魏と、ある時は蜀漢と同盟を結び三国の均衡を保っていた。
後継者と目視していた孫登が早世してから呂壱など佞臣を起用したり、晩年は後継者問題で国を荒らし、王表という神を信じて福を求めるなど老耄が目立った。
呉主伝で陳寿は「身を屈して、恥を忍び、計を重んじ、勾践の奇英あり 人に勝れしものなり」 と評している。
ちなみに孫権の子孫は今現在、中国杭州の富陽市南部の龍門古鎮という村に住んでいるとされ、この村では9割の人間の姓が「孫」である。
[編集] 年譜
- 196年 - 15歳のとき、朱治によって孝廉に推挙される。
- 200年 - 急死した兄孫策から後継者に指名され、19歳で家督を継ぎ、江東一帯の主となる。曹操の上表により会稽太守・討虜将軍に任じられる。任地には赴かず、呉(現在の蘇州)に本拠を構える。
- 208年 - 父の仇である黄祖を討ち取る。曹操に大軍で攻められ家臣には降伏を奨められるも劉備と同盟し、赤壁の戦いに勝利する。
- 209年 - 妹を劉備に嫁がせる。
- 212年 - 本拠地を秣陵に移し、建業と改名。石頭城を改装。
- 215年 - 合肥の戦い 魏の最前線合肥を攻めるが、逆に曹軍の武将、張遼に討ち取られる寸前まで追い詰められ辛うじて逃げのびる。
- 216年 - 濡須口の戦い 前年の合肥の戦いの勝利に乗じて魏軍が侵攻してくるも、これを食い止める。
- 219年 - 劉備と手を切って曹操と同盟を組み、関羽を討ち取って悲願であった荊州の奪取に成功。曹操の上表により呉王・驃騎将軍・荊州牧に任じられ、南昌侯に封じられる。
- 221年 - 本拠地を鄂に移し、武昌と改称する。魏の皇帝曹丕により再度呉王に封じられる。
- 222年 - 劉備を夷陵の戦いで破る。「黄武」の元号を立てて、魏から独立する(実質的な呉の建国年)。
- 223年 - 蜀の使者鄧芝と面会し、呉蜀同盟を結び魏との同盟を破棄する。
- 229年 - 皇帝に即位。建業に遷都する。
- 230年 - 夷州(台湾)の探索を行わせる。亶州(沖縄諸島)の探索を行わせたが果たせなかった。
- 233年 - 公孫淵に九錫を賜り、燕王に封じる。しかし使者の張弥と許晏を殺され、その首は魏に送られた。
- 250年 - 二宮事件(孫和派と孫覇派の家督争い)を決着させる。
- 252年 - 71歳で死去。蒋陵(現在の紫金山南麓。孫権墓・梅花山とも呼ばれ、墓標や石像が残る)に葬られる。
[編集] 続柄
[編集] 父母
- 父
- 母
- 呉郡の出身。弟に呉景がいる。死後、皇帝に即位した孫権に武烈皇后と追号される。
[編集] 后妃
- 謝夫人(しゃふじん、生没年不詳)
- 徐夫人(じょふじん、生没年不詳)
- 呉郡富春の出身。孫堅の妹の孫。孫権に嫁ぐ前は陸尚(陸康の孫)の妻だった。陸尚が亡くなった後、孫権が討虜将軍として呉郡に住んでいた頃に結婚し、孫登の養母となる。しかし、嫉妬深い性格から離縁され、孫権が本拠地を移した後も呉郡に住み続けた。孫登や群臣たちは彼女を皇后に就けるよう進言したが、孫権は拒んだ。孫権が帝位に就いた後病死した。
- 歩夫人(ほふじん、? - 238年)
- 徐州臨淮郡淮陰の出身。歩隲の同族。孫魯班・孫魯育姉妹の生母。孫権に最も寵愛され、皇后にと望まれるも正式に就くことはなかった。死後孫権から皇后の位を追贈される。孫権とともに蒋陵に葬られる。『建康実録』によると、諱は練師(れんし)。
- 王夫人(おうふじん、生没年不詳)
- 徐州琅邪郡の出身。孫和の生母。父は王盧九。孫和が皇太子に立てられるが、孫魯育に疎まれ失意のうちに亡くなる。死後、孫皓によって大懿皇后の号を授けられる。
- 王夫人(おうふじん、生没年不詳)
- 荊州南陽郡の出身。孫休の生母。孫和が皇太子に立てられると後宮から地方に出された。公安で死去。死後、孫休に敬懐皇后の号を授けられ、敬陵に改葬される。
- 潘夫人(はんふじん、? - 252年)
- 会稽郡句章の出身。孫亮の生母。父は元役人だったが法を犯して死刑になっている。251年、皇后に立てられる。生前に孫権の皇后となった唯一の人物。翌年2月宮女たちに疎まれ、殺される。蒋陵に合葬される。
そのほか、袁夫人(袁術の娘)、謝姫(孫覇の母)、仲姫(孫奮の母)、趙夫人(『三国志』には名が見えないが、六朝期の画家とされる。刺繍が得意で「呉宮の三絶」との言葉を生んだ)といった名が見える。
[編集] 子
- 男子
- 字は子智。228年、建昌侯に封じられる。後、鎮軍大将軍に任じられる。232年、20歳で死去。
- 字は子揚。252年に斉王に封じられ、武昌に住んだ。諸葛恪が豫章に移そうとすると、これに反発したが、結局は南昌に移った。諸葛恪が誅殺されると建業へ上京しようとし、これを諫めた部下達を殺害し、庶民に落とされた。258年、章安侯に封じられた。270年に孫皓の左夫人である王氏が亡くなり、数ヶ月後に孫奉とともに皇帝即位の噂が流れた。孫皓の怒りに触れて毒殺された。
- 女子
- 孫魯班(そんろはん、生没年不詳)
- 周瑜の息子の周循に嫁ぐが、夫が早世したために全琮に嫁ぎ、全呉が生まれる。孫権と王夫人の仲が嫌悪になると、孫権に対し積極的に讒言し、それが元で王夫人は失意の内に病死してしまう。のちに呉の全権を握った孫峻と密通し、孫和を自殺に追い込む。255年、孫英や孫儀らのクーデターが失敗すると妹の孫魯育が殺され、孫魯育の子で甥の朱熊・朱損もクーデターの首謀者のひとりであると讒言し、処刑している。258年、孫亮が専横激しい孫綝を排除しようとしたが失敗し、それに連座して豫章に流された。
- 孫魯育(そんろいく、? - 255年)
- 朱拠に嫁ぐ。255年、孫峻打倒のクーデターに失敗し、首謀者のひとりとして殺された。
そのほか、劉纂に嫁いだ娘がいる。
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 陳寿、裴松之注、『正史三国志』全8巻、今鷹真・井波律子・小南一郎訳、筑摩書房<ちくま学芸文庫>、1992年 - 1993年。
- 王敏 編、『中国歴代王朝秘史事典』、河出書房新社、1999年、ISBN 4-309-22339-7。
- 金文京、『中国の歴史04 - 三国志の世界』、講談社、2005年、ISBN 4-06-274054-0。
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