蕗谷虹児
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蕗谷 虹児(ふきや こうじ、1898年(明治31年)12月2日 - 1979年(昭和54年)5月6日)は画家。詩人。
1898年(明治31年)新潟県新発田町(現新発田市)に生まれる。本名は一男。母親は新発田町の湯屋の看板娘で京風の美人と伝えられる。新聞記者と駆け落ちして蕗谷虹児を産むが、貧困の末、蕗谷虹児が12歳の時に27歳の若さで死去。母への追慕の情が、後の作風に影響を与えたと言われる。
母親の死により家族は離散。新潟市の印刷会社に丁稚奉公、絵の勉強をしながら夜学に通う。1912年(大正元年)彼の絵の才能を認めた新潟市長の紹介により、日本画家尾竹竹坡(おだけ ちくは)の内弟子として上京(この尾竹竹坡の姪が『青鞜』の尾竹紅吉である)。約5年の間、日本画を学ぶが、約5年の内弟子生活の後、父親の仕事の関係で樺太へ渡り、旅絵師として放浪生活を送る。
1919年(大正8年)竹坡門下の兄弟子戸田海笛を頼って上京。戸田海笛の紹介で日米図案社に入社、デザイナーとして修行する。1920年(大正9年)竹久夢二を訪ね、主筆の水谷まさるを紹介される。これにより雑誌『少女画報』で初めて「蕗谷虹児」の筆名により挿絵デビューを果たす。翌年朝日新聞連載の吉屋信子の長編小説『海の極みまで』の挿絵に大抜擢され、全国的に名を知られるようになる。『少女画報』『令女界』『少女倶楽部』などの雑誌の表紙絵や挿絵が大評判となり、時代の寵児となって、竹久夢二と並び称された。1924年(大正13年)2月、『令女界』に発表した童謡詩『花嫁人形』は、後に杉山長谷夫による作曲で、蕗谷虹児の代表作となった。他に9冊の詩画集を出版している。
1925年(大正14年)挿絵画家としての生活に飽き足らず、パリへ留学。苦学の末、サロン・ナショナル、サロン・ドートンヌ等への連続入選を果たし、また藤田嗣治や東郷青児等と親交を深める。ようやく画家としての地歩を固めつつあったが、1929年(昭和4年)東京の留守宅の経済的破綻により急遽帰国。借金返済のため、心ならずも挿絵画家の生活に戻るが、パリ風のモダンな画風は一世を風靡した。1935年(昭和10年)詩画集『花嫁人形』出版。しかし、やがて戦時色が強くなると蕗谷虹児の絵は時勢に合わず、制作を休止。
終戦後、復興された各誌に執筆を再開。1953年(昭和28年)の小学館の絵本や、1956年(昭和31年)の講談社の絵本など、20冊を越える絵本の挿絵で子供に親しまれた。また、1954年(昭和29年)には東映動画スタジオの設立に参加し、アニメーション映画『夢見童子』の原画・構成を担当した。1979年(昭和54年)中伊豆温泉病院で急性心不全により死去。
新潟県新発田市には「蕗谷虹児記念館」が建つ。
[編集] 関連項目
- 神奈川県立山北高等学校(校歌の作詞を蕗谷虹児がおこなった)