薦野増時
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薦野 増時(こもの ますとき、天文12年(1543年)-元和9年2月10日(1623年3月10日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての筑前国糟屋郡の国人領主。号は賢賀。立花氏の家老を務めて後に「立花三河守」の名乗りを許された。
[編集] 経歴
元は筑前国糟屋郡薦野(現在の福岡県古賀市)の小領主で祖先は宣化天皇の末裔である多治氏であるという。薦野氏は代々宗像氏や立花氏に仕えてきたが、永禄11年(1568年)に立花鑑載が大友氏の重臣・戸次鑑連に討たれるとこれに降伏した。その後、大友宗麟の命で鑑連が立花山城に入って「立花道雪」と名乗ると、増時はその家臣となった。
増時は冷静沈着で文武に秀でた人物であったため、道雪の家臣団の中では新参でありながら家老を任されるようになり、譜代の由布惟信、大友氏の与力出身の小野鎮幸と並んで家政を預かった。道雪は増時の才能を愛して彼を養子に迎えて家督を譲ろうとした。だが、これに真っ先に反対したのは他ならぬ増時であった。増時は現在の立花氏の家中は道雪に対しては絶対的な忠節を誇るものの、内実は様々な出身者による寄合所帯であり、安易な家督相続は道雪の死後に内紛を引き起こすとしてこれを諌めたのである。やがて、道雪と増時は高橋統虎を道雪の養子に迎えることに決め、統虎との養子縁組を実現させると、増時はその補佐にあたるようになった。
天正13年(1585年)、島津氏の北上の最中に道雪が病死する。統虎が名を「立花宗茂」と改めて立花氏の家督を継ぐと、増時は引き続き宗茂に仕えて各地を転戦するだけでなく、島津氏や豊臣秀吉との交渉にあたった。特に十時連貞とともに島津側の策略で捕虜になった宗茂の最愛の弟・高橋統増の返還を実現させた事などで長年の忠義を評された増時は立花姓を名乗ることを許され、息子吉右衛門成家(立花成家)の正室には宗茂の実妹が配される事となった。
豊臣秀吉の九州平定後に宗茂は筑後国柳河城に移封されると、増時もまた支城である同国三潴郡城島城(現在の久留米市)に4千石を与えられた。だが、この頃から宗茂・増時主従の関係も少しずつわだかまりが生じてきた。増時が立花氏と宗茂にとって無くてはならない忠臣である事は誰もが認めるところであったが、一人前の武将となった宗茂には増時は口喧しい老臣として映り始め、一方増時にとっても先祖代々伝えられてきた筑前の所領を失う事は予想だにしていなかった事であった。
慶長5年(1600年)、関が原の戦いの際に増時は徳川家康率いる東軍の勝利と判断して、親徳川派の加藤清正・黒田如水との同盟を進言した。しかし、宗茂や他の重臣は「太閤殿下の御恩」を主張して西軍への参加を決定してしまい、孤立した増時は柳河城の留守を命じられた。やがて、西軍は敗戦、柳河城は黒田・加藤らの軍に攻められて開城に追い込まれ、宗茂に代わって増時が後始末を行った。
立花氏の改易が決まると、同家の家臣は他家に仕える者、宗茂に従う者など離散する事となった。そんな中で増時は黒田如水から仕官を勧められる。新たに黒田氏が拝領した自分の故郷・筑前への帰国を希望していた増時は、旧主・道雪が眠る梅岳寺(現在の福岡県新宮町)の墓守をする事を希望した。そこで如水は増時の息子に父の旧知行と同じ4千石を授け、これとは別に増時自身にも隠居料200人扶持が与えられる事となった。以後、増時の系統は福岡藩家臣・立花氏として黒田氏に仕え続けて、かつての主君・立花宗茂が再び柳川藩に封じられた後も立花氏に復帰する事はなかった。
元和9年、増時が81歳で死亡すると、道雪の生前に恩賞として得た許しに随って、梅岳寺の道雪墓所の隣に葬られた。福岡藩の重臣で文人として名高い立花実山は曾孫にあたるという。