藤井丙午
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藤井 丙午(ふじい へいご 明治39年(1906年)2月23日 - 昭和55年(1980年)12月14日)は、岐阜県白川町出身の財界人。新日本製鉄副社長、参議院議員。勲一等瑞宝章。
[編集] 来歴・人物
財界にあって、政界とのつきあいも広く、参議院議員になるなど「財界政治部長」の異名を取った。
早稲田大学専門部在学中に、早慶戦の入場券を学校当局が不正配分したとして、学生がストライキを起こす騒ぎに発展したが、藤井は学生側委員長としてストライキを指揮した。この騒ぎは、中野正剛・緒方竹虎が学校と学生の間に入って仲介を勤めたが、このことが縁で、卒業後、朝日新聞社に入社した。政治部記者時代に、文部大臣を務めた平生釟三郎の知遇を得て、秘書になる。
その後、平生によって日本製鉄が設立されると日本製鉄に入社、永野重雄と知り合う。藤井と永野は盟友として、日本製鉄から官僚出身者の排撃に共に動いたりもした。
戦後は経済同友会の設立に尽力し、設立総会で藤井は「政府のみでなく財界でも、その指導者たちは形式的な民主化に表面をつくろい、古い型の資本主義をそのまま温存しようとしている。新しい産業の在り方について時代的な感覚を持ち合わせていないのは遺憾だ。このような情勢は、我々中堅経済人の奮起を促している。」と世話人を代表して挨拶した。昭和22年(1947年)の第1回参議院議員通常選挙に全国区から立候補し当選するが、1期3年で退任。日本製鉄が分割されて設立された八幡製鉄に復帰して、総務部長・副社長を歴任する。
昭和43年(1968年)に八幡製鉄と富士製鉄が合併して、新日本製鉄が誕生すると引き続き副社長に留任。しかし、社内方針を巡り永野重雄と鋭く対立、稲山嘉寛を巻き込む社内紛争に発展し、結局三者揃って退陣することで決着する。昭和49年(1974年)に岐阜県選挙区から参議院選挙に出馬、当選。自由民主党岐阜県連会長などを務める。昭和55年(1980年)に再選を果たすが、12月14日死去。