永野重雄
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永野 重雄(ながの しげお、1900年7月15日 - 1984年5月4日)は、島根県松江市生まれ、広島県広島市南区出汐育ち。新日本製鉄会長などを歴任し、日本財界の雄として活躍した日本の実業家。戦後日本を代表する経済人の一人。正三位勲一等旭日桐花大綬章。広島高等師範学校附属小学校―広島高等師範学校附属中学校―第六高等学校―東京帝国大学法学部政治学科卒業。
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[編集] 永野家
瀬戸内海、広島県呉市沖に浮かぶ下蒲刈島、浄土真宗西本願寺派の名刹、弘願寺。開基は今から480年前、室町時代の1525年(大永五年)、源氏との壇の浦の戦いに敗れた平家の武将、永野小佐衛門がこの地に落ちのび名を常浄と改め、元行寺という浄土宗の廃寺跡に弘願寺を建立した。途中寺族が途切れたようだが、永野重雄の父、法城は11代目を継ぐ宿命にあった。が、明治初期の激動期に寺を出奔して上京、大學南校(東京大学の前身)で法律を学び裁判官となった。法城は島根県浜田市を振り出しに、松江市、岩国市、山口市と中国地方の裁判所で判事生活を送ったのち、職を辞し広島市中町(現中区中町) で弁護士事務所を開業した。重雄は10人兄弟の次男として松江に生まれた。だが、実際に育ったのは広島のため、終生広島出身と押し通した。
[編集] 経歴
10歳年の離れた長兄・護(永野護)が東京の第一高等学校で柔道部のキャプテンをしていたので、夏休みとかに帰郷すると、退屈だと小学校の重雄に柔道の相手をさせた。何度投げ飛ばされてもへこたれず向かっていき、おかげで子供の頃から大変な腕力がつき、重雄が表を通りかかると近所の親達は、子供を隠し回る程の暴れん坊となった。長兄はめったに帰って来る事は無いため、家庭では暴君の如く威張っていた。しかしスポーツが万能で運動部の助っ人によく借り出され、暴れん坊の割りに不思議と人に好かれた。護が東大法学部在学中、重雄が小学6年生、一番下の弟・治(永野治)が生まれてまもなく父がおできで46歳で死去。その後一家は護の並外れた献身のお陰で、みな大学までいった。護の帝大時代の親友が財界の巨頭、渋澤榮一の子息だったため勉強相手という名目で謝礼を頂きそれが郷里への仕送りとなった。兄弟はみな出来がよく、故人となった三男以外の六兄弟は5人が東大、1人が東北大に進んだ。あとの3人は女の子。
重雄は六高に受かると柔道一本に絞った。柔道部で同郷福山市出身で後「財界四天王」とともに呼ばれる桜田武を歓誘して、高専柔道界の王座を築いた。六高から東大法学部に進み1924年(大正13年)卒業後、貿易会社浅野物産に入社。気乗りしない会社で10ヶ月で退社。翌1925年(大正14年)護を通じて渋澤榮一の子息・正雄の依頼を請け倒産会社、富士製鋼の支配人兼工場長となりこの会社の再建を遂げる。これが機縁で一生鉄屋商売に足をどっぷり漬けることとなった。1934年(昭和9年)製鉄大合同で富士製鋼が日本製鉄に合併され、日本製鉄富士製鋼となり所長に就任。1941年(昭和16年)鉄鋼統制会に理事として出向。北海道支部長で終戦を迎える。
1946年(昭和21年)敗戦後、日本製鉄常務取締役で復帰。1947年(昭和22年)六高の先輩・和田博雄長官の強い要請で片山内閣経済安定本部副長官(次官)となる。この時、次官仲間の池田勇人(大蔵省)、佐藤栄作(運輸省)と親交を結び政界に強い財界人の素地を作った。しかしGHQの命令で天下り禁止法が作られることになり、鉄屋に戻るため1年半で役人は辞めた。1947年創立直後の経済団体連合会(経団連)の運営委員。1948年(昭和23年)日本経営者団体連盟(日経連)常任理事。同年、GHQが強力に推進した戦前体制一掃政策により、日本製鉄が過度経済集中排除法の指定会社となり、八幡製鉄と北日本製鉄(のち富士製鉄)に、二分割され1950年(昭和25年)発足した富士製鉄社長に就任。この年、米軍が戦時に攻撃を避け、占領後のため残したといわれた日本最大・最新鋭の広畑製鉄所が、日本側に返されることになった。吉田茂の側近・白洲次郎はドル獲得のためイギリスに売却を主唱、また地元関西系三社も生き残りを賭け激しい争奪戦が繰り広げられたが、永野は全社員を集め「取れなかったら腹を切る」と啖呵を切ってあらゆる人脈を使い広畑を獲得、会社は大きく飛躍した。白洲次郎とはその後銀座のクラブで取っ組み合いの大ゲンカとなった逸話も残る。1959年(昭和34年)東京商工会議所会頭と日本商工会議所会頭に就任。桜田武、小林中、水野成夫とともに「財界四天王」と呼ばれ、同郷の池田勇人の総理誕生にも尽力した。
1963年(昭和38年)日本鉄鋼連盟会長に就任、1965年(昭和40年)同名誉会長に就任。1970年(昭和45年)、得意とする政治力で大平正芳、佐藤栄作、三木武夫ら有力政治家を動かし八幡製鉄との戦後最大級・世紀の大合併を実現させ新日本製鉄を設立、会長に就任した。この時合併をめぐって藤井丙午副社長と対立し1973年(昭和48年)藤井の政界転身と同時に自らも取締役相談役に退く。戦後日本経済の牽引車的役割を果たした経済人の一人である。1981年にはロナルド・レーガン大統領就任式に参列。また道州制の提唱や第二パナマ運河の構想など、経済界の日本代表として国内外で活躍した。長きに渡り財界に君臨したため「財界フェニックス」との異名をとった。商工会議所会頭の仕事では、1973年の小企業等経営改善資金融資制度の発足ほかで、日本経済の基盤である中小企業育成に尽力。1984年(昭和59年)日本商工会議所会頭を五島昇に譲り退任した。長年、在京広島県人会会長(副会長・桜田武)を務め、また東洋工業が経営危機に陥った際には最高顧問を引き受けた。毎年、盆には永野ファミリーを率いて蒲刈に墓参に帰っていた。生涯明治の気骨を貫き通し、柔道・囲碁など合わせて64段が自慢だった。1984年死去。享年83。永野の死により政財界密着時代の幕が降ろされたともいわれた。
[編集] 略歴
- 1924年(大正14年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業、浅野物産に入社。
- 1925年(大正15年) 富士製鋼に転じる。
- 1934年(昭和9年)支配人・取締役をへて、日鉄富士製鋼所長に就任。
- 1947年(昭和22年)敗戦後経済安定本部で和田博雄の下で副長官となる。
- 1950年(昭和25年)富士製鉄の設立とともに社長に就任。
- 1963年(昭和38年)日本鉄鋼連盟会長に就任。
- 1965年(昭和40年)同名誉会長に就任。
- 1969年(昭和44年)9月 第13代日本商工会議所会頭に就任
- 1970年(昭和45年)八幡製鉄との合併で新日本製鉄を設立し、会長に就任。
- 1984年(昭和59年)5月 日本商工会議所会頭を五島昇に譲り、退任。
東京商工会議所会頭、経済同友会代表幹事、経団連・日経連各顧問、日本生産性本部副会長、欧亜協会・ラテン-アメリカ協会・日豪経済委員会・アジア貿易開発協会・全日本交通安全協会、太平洋経済委員会などの各委員長を兼任していた。
[編集] 親族
兄は政治家(運輸大臣他)・実業家で政界との橋渡し役をした永野護、弟・四男永野俊雄は五洋建設会長、弟・五男伍堂輝雄は日本航空会長、弟・六男永野鎮雄は参議院議員、弟・七男永野治は国産ジェットエンジンの開発で知られ石川島播磨重工会長となった。また、護の子、永野厳雄は広島県知事、永野健は三菱マテリアル社長及び日経連会長になるなど、揃って政経財界で活躍し、永野六兄弟、永野一家などと呼ばれ、日本最大・最強の閨閥地図を作り上げた、とも言われた。
[編集] エピソード
1925年(昭和50年)、恩人渋澤榮一の子息に倒産会社・富士製鋼の再建を依頼されたが、当時の富士製鋼は従業員が逃げ、敷地内にはペンペン草が生い茂っていた。永野の最初の仕事はペンペン草の抜き取りと殿様ガエルの追い出しだった。恩人の頼みとはいえ東大まで出た自分が、なぜこんなことをしなければいけないのか、としみじみ考えたが、持ち前の向意気の強さと、柔道で寝技が特に強く、喰らいついたら離さないマムシのよう、とも言われた執念で富士製鋼を再建させた。部下は留守番だけの時代から、やがて工員300人を数える会社となった。この頃には工員を後姿でも誰か分かるようになり、後ろから「〇〇君、一杯どうだい?」と誘った。「人は後ろから声をかけられると、相手に親しみを憶えるものらしい」と苦労人らしい名言?を残している。
戦時中は北海道にいた永野は、いずれ北海道は日本から離れて独立国になるだろう、と自論を持ち、その基礎作りをしようと考えていた。戦後、職を失った弟の治ら親しい人間に北海道に来ないか、と誘ったが、さすがに突拍子もないと思われた。(出典:ジェットエンジンに取り憑かれた男 前間孝則著)
1960年(昭和35年)同郷で親しかった池田勇人から官僚嫌いで知られる松永安左ヱ門に勲章を受けるかどうかの内意を探る使者の役割を仰せつかった。松永は茶を立てて永野を迎えたが、永野が懐紙で鼻をかんだせいか、勲章の話は、それきりになった。
日本製鉄時代には、官庁色の強かった同社から官僚出身者の排除に共同戦線を張った永野と藤井丙午だが、いっさい口をきかない仲となったのは1965年(昭和40年)のこと。元々何でも自分中心でないと気に食わない永野は、自分より政界や財界に顔が広く、かつ人気もある藤井が段々気に入らない存在となっていったようで、決定的となったのはその1965年。当時国家公安委員だった永野が任期満了となり、その後任も財界からということになった。総理佐藤栄作は永野に「人選はおまかせします」と下駄を預け「それならば」と永野は土光敏夫を推し話し合いは進行していたが、官房長官橋本登美三郎を通じ、佐藤総理から「藤井君を後任にしたいので、あの件は無かったことにして頂きたい」という断りが届いた。これを永野は烈火の如く怒り「おまかせすると言っておいて、何だ!!!」と佐藤の自宅に怒鳴り込んだ。二階の応接間から言い合う二人の声が響き、秘書達もオロオロしたという。結局後任は藤井となったが、この後佐藤と橋本は、一席もうけ土光と永野、藤井も招いて手打式をとりおこなった。しかし永野は「よくも俺の顔に泥を塗りやがった」と以来藤井との仲は決定的となった、とされる。
1970年(昭和45年)、八幡製鉄との合併、新日本製鉄の設立では、いずれこの日が来ると、早い時期から根回し工作に画策した。事あるごとにOB達に合併の必要性を訴え、また通産省の三木武夫らにも近づいて準備を進めた。当時の八幡の社長・稲山嘉寛を組し易しと踏んだ永野は、稲山を社長、自らは会長となり合併を実現させた。会長は代表権が無い名誉職の場合が多いが永野は代表権を持ち、争いを好まない稲山を翻弄、ポストの割り振りは公平でも重要ポストはほとんど富士系が握り実質的な権力を完全に握った。元々富士製鉄と八幡製鉄では、支配人だった人が課長くらいにしかなれない、といわれる程格が違った。このためカエルがヘビを飲み込んだともいわれた。特に八幡で政界への献金の窓口をしていた藤井を潰すことを最大の目標にし藤井からこの役を取り上げた。この後は会議などでも代表権を盾に押しまくり、自らの意のままに会社を動かし遂に日本一の大企業を掌握した。藤井は刺し違えることを決意。稲山社長を取り込み思い切った若返り策を提案、永野は腹心の武田豊の副社長昇格と引き換えに会長を退き、取締役相談役名誉会長となった。藤井はただの相談役となり新日鉄の権力構造から追放され退職、政界転身となった。しかしその後、永野が狙った「財界総理」経団連会長の座には、この時尻に敷いたはずの稲山に、のち奪われてしまうという皮肉な結果となってしまった。
1978年(昭和53年)の佐世保重工業の再建にあたり、坪内寿夫を社長に起用することについて永野が尽力したことを、高杉良『小説会社再建-太陽をつかむ男』(集英社文庫、1991年)が実名で取り上げている。
[編集] 著書・参考文献
- 永野重雄/生き方・考え方、佐藤正忠、サンケイ出版(1977年)
- 君は夜逃げしたことがあるか、自著、にっかん書房(1979年)
- NO.2のつぶし方、上之郷利昭、KKベストセラーズ(1981年)
- 永野重雄回想録、新日本製鐵(1985年)
- 永野重雄追想録、日本商工会議所、東京商工会議所(1985年)
- 大法螺小法螺、永野重雄、武田豊(1960年)