血の日曜日事件 (1905年)
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血の日曜日事件 (ちのにちようびじけん) とは1905年1月9日(ユリウス暦。グレゴリオ暦では1月22日)、ロシア帝国の当時の首都サンクトペテルブルグで行われた労働者による皇宮への請願行進に対し、政府当局が強硬に弾圧を加えた事件。
1905年1月9日は日曜日で、請願行進はガポン神父に主導された。ガポンはロシア正教会の司祭であると同時に、国家秘密警察の給与を受ける工作員であった。ガポンは行進を扇動したといわれるが、王制側の人間であった彼が革命の引き金を引く事になったのは歴史の皮肉である。
請願の内容は、労働者の法的保護、日露戦争の中止、憲法の制定、基本的人権の確立などで、搾取・貧困・戦争に喘いでいた当時のロシア民衆の素朴な要求を代弁したものだった。当時のロシア民衆は、ロシア正教会の影響の下、皇帝崇拝の観念をもっていた。これは、皇帝の権力は王権神授によるものであり、またロシア皇帝はコンスタンティノープルの東ローマ帝国を受け継ぐキリスト教の守護者であるという思想である。このため民衆は皇帝ニコライ2世への直訴によって情勢が改善されると信じていた。
行進に先立って挙行されたストライキへの参加者は、サンクトペテルブルグの全労働者18万人中、11万人に及んだと言われ、行進参加者は6万人に達した。
この行進の弾圧による死者の数は不明確である。反政府運動側の報告では、4,000人以上に達したと主張される。一方、より慎重に概算した報告でも死傷者の数は1,000人以上とされる。事件の話はモスクワ市内に速やかに広まり、市内各所で暴動と略奪が行われた。ガポンによる集会は即日閉鎖され、ガポンは直ちにロシアを離れた。10月に帰国した際、ガポンは社会革命党によって暗殺された。
この事件の結果、皇帝崇拝の幻想は打ち砕かれ、後にロシア第一革命と呼ばれた全国規模の反政府運動がこの年勃発したとみなされている。この時に始まったロシアの共産主義運動は、1917年のロシア革命(二月革命、十月革命)の原動力に成長してゆく。
[編集] 関連項目
- ロシア革命
- 交響曲第11番 (ショスタコーヴィチ)「1905年」 - 血の日曜日事件を題材にした音楽作品
- ロシア第一革命