ロシア正教会
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ロシア正教会 (-せいきょうかい、ロシア語 Русская Православная церковь)は、東方正教会に属するキリスト教教会である。総指導者はモスクワ総主教(モスクワおよび全ロシア総主教)。現在の総主教はアレクシー2世(在位:1990年 - )。
ロシア正教会の歴史は、988年、キエフ大公ウラジーミル1世が、東ローマ帝国皇帝バシレイオス2世の妹アンナを妃とし、公式に東ローマ帝国(ビザンティン帝国)の国教である東方正教会へ改宗した時から始まる。最初の府主教座はキエフにおかれた。
発足当初はコンスタンティノポリス総主教庁の監督下にあり、コンスタンティノポリス総主教がロシア正教会の府主教を任命した(当初は府主教もビザンティン帝国から派遣されたギリシャ人だった)。
キエフがモンゴル帝国に攻撃されて荒廃したことをうけ、ロシア府主教の根拠地は、キエフからスズダリへ、ついでウラジーミルへ、さらに1325年、モスクワへその根拠地を移転した。
1439年、フィレンツェ公会議でカトリック教会と正教会の指導者であるコンスタンティノポリス総主教および東ローマ帝国皇帝による、教会の分裂の再統合の合意がなされた。しかし、フィリオクェ問題をはじめとする教義の違いが争点となり、ロシア正教信者は西方のカトリック教会との譲歩を拒絶した。ロシア正教会の代表として公会議に出席し、再統合に賛成したギリシャ人のモスクワ府主教イシドール(ギリシャ語名イシドロス。1436-1441年)は、モスクワに帰任すると直ちに捕らえられ、府主教を聖職を解かれて追放された。イシドールはローマに逃れ、ローマ・カトリック教会の枢機卿に就任した。このときイシドールとともに多数の聖職者・教会がローマ・カトリックに改宗した。これをロシア正教会側からはユニア教会または帰一教会と呼ぶ(現在の東方カトリック、ギリシャ=カトリック、あるいはカトリック東方典礼教会)。
モスクワ大公ヴァシーリー2世は1448年、ロシア主教会議を招集し、新しい府主教イオナ(1448-1461)を即位させた。その後、ロシア正教会はコンスタンティノポリ総主教庁から自治独立権を有するようになった。
ロシア正教会はロシア領の拡大とともにその宣教範囲を拡大し、シベリア、アラスカ、さらにはロシア国外の日本などへ宣教師を送り、教会を建てた。一方ピョートル1世以降、皇帝は聖務院をおいて、ロシア正教会を国教として保護する一方で厳重な統制下においた。
ロシア革命によって無神論を奉じるソヴィエト政権が成立すると、多数の教会や修道院が閉鎖され、財産が没収された。また聖職者や信者が外国のスパイなどの嫌疑で逮捕され、また多数の者が処刑され、殉教した。モスクワ総主教チーホンはソヴィエト政権をロシアの正当な政府と認め、一定の協力を行ったが、教会の活動は著しく制限された。政府の迫害を恐れ、多数の亡命者も出た。
ヨーロッパや北アメリカに亡命した信徒や聖職者は、すでに移民していたロシア移民が建てた在外ロシア正教会に拠り、信仰を守った。それによりパリやニューヨークでロシア正教会の神学校が建ち、20世紀における神学研究の1つの中心となった。その一方で、1927年にソヴィエト政府に対する忠誠の誓約を要求した総主教代理代行セルギイの総主教位継承を認めず、セルギイの後継者に対してもその正統性を認めなかった。現在、セルギイ派モスクワ総主教協会と在外ロシア正教会の間で和解交渉が進められているが、その進展は予断を許さない。
ソヴィエト政権が崩壊した後、ロシア正教会はとくにロシアでロシア人の精神的なよりどころとして教勢を再び伸ばす一方、合法化された帰一教会や、主にアメリカから入ってくる福音派などプロテスタントの伝道との競争にさらされ、緊張関係におかれている。
ロシア正教会は、伝統的に神秘主義の強い影響があることで知られており、近世以降も東方正教会のなかでも比較的保守的なことで知られている。近隣のいくつかの国やアメリカなどで他の正教会と管轄権について議論があり、決着をみていない。ローマ教皇庁とも比較的緊張関係にあり、モスクワ総主教とローマ教皇の対話もあまり進展していない。
[編集] 日本との関係
日本に正教を浸透させたのはロシアの修道司祭ニコライである。2004年現在、日本ハリストス正教会は自治教会であり、その長たる日本府主教の認可はモスクワおよび全ロシアの総主教によって行われる一方、財政は完全にロシア正教会から独立している事などにみられるように、教会運営において極めて高度な自治を行っている。
ロシアと直接的に関係を持つ日本の教会として、「ロシア正教会駐日ポドヴォリエ」がある。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- ロシア正教会の聖堂(ロシア語)