西村大樹
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西村大樹(にしむら・たいじゅ、1974年1月25日 - )は、アニメ演出家。東京都世田谷区生まれ。本名は西村智史( - さとし)。最近はアニメだけではなく、実写の脚本、ゲームの企画・脚本・監督、小説などの分野でも活動している。
目次 |
[編集] 生い立ちなど
元来は実写の助監督であったが、佐藤順一が演出を手がけた「美少女戦士セーラームーンS」に影響されてアニメを志した。なお、父は元東映京都撮影所の美術。
[編集] 高校まで
小学生の頃は目立たない、ただのいたずら坊主(特にスケベネタを好んでいたらしい)でしかなかった。父親が映画マニアでホームシアターを構えていたということもあり映画はやたらと見ていたという。 中学にて放送委員会に所属。ビデオカメラで撮影するおもしろみを見つけて次々と撮りまくっていく。凝るあまりにプール開きを2回行わせて編集でカットバックする、などの行為をしたり、朝礼で君が代流れつつ日の丸が掲揚されているときに突然ビデオカメラを取り出し「あなたは心から日の丸を愛しているのですか!」と校長に詰め寄るなどして度々問題になった。
高校は「8ミリが撮れるから」という理由だけで神奈川県立大沢高等学校へ。そして「特撮アニメ部」に入る。別にアニメにも特撮にも興味はなかったが、活動していくうちにハマってしまい、コミケなどの同人誌即売会に通い出す。自身も同人誌を作成し販売していたときもあった。
[編集] 専門学校から第一期アニメ時代へ
「映画以外に進むべき道はない!」と思い、日本映画学校へと進む。が、なぜか編集コースを選択。理由は「ここに落ちたら代々木アニメーション学院に行け!」と親に言われ、当時は全くアニメの世界に行くことなど考えていなかった彼は、倍率が低い録音と編集を「とにかく入るため」に受験したとのこと。
同期生に脚本家の伊丹あき、足立紳、映画監督の小沼雄一らがいる。 高校まではおとなしい性格であったのか、ここで本当の自分が出たかのごとく活躍。学校の廊下で朝から酒盛りをしていた。 先に書いた「セーラームーン」との出会いはこのときであった。コミケのスタッフ(主催者側)であったにも関わらず、実写の世界にあこがれていたのだが、同作のカット割り、画面構成、音楽のタイミングなどに愕然とし「この人の助監督をしたい!」と思いアニメへと進むことを決める。 ちなみに、学内では「あいつがアニメなんかできるはずがない」と講師からにも言われていた。面接当日の朝まで講師に飲みに連れて行かれており、酔ったまま面接を受けた。
[編集] 東映時代
自分でも受かると思わなかった東映動画(現・東映アニメーション)に第三期演出研修生として入社する。その後、飲み会の席で「実は一番優秀な成績で合格してたんだよ」と言われ、しばらく己の才能にうぬぼれる。 が、実際にはミスを連発する使えない演出助手であった。
「セーラームーン」「金田一少年の事件簿」と二年半勤めたとき、突如うつ病に襲われる。自分でこうしようと思っても体が動かない。現場放棄をし、毎日じっと自殺願望に耐える日々が続いた。
[編集] そしてゲームへ
引きこもりになったがお金はない。自宅でできる仕事を探してアダルトゲームの企画脚本家になる。一時は、自らがプロデューサーとして金を集めていたときもある。 しかし、スポンサー側が望んでいる作品と西村側が作ろうとしていた作品があまりに違ったため、途中降板してしまう。
[編集] アニメ再び
どうにかして社会復帰をしようと悩んでいるときに思いついたのが「原画チェックならできる!」 そこでビィートレインへと連絡を入れて演出として復帰する。 半年後にはフリーになり、数々の作品に参加。日本で一番忙しい演出(年間30本以上)と言われるようになる。
[編集] うつ病
「自分の考えていることは自分で絶対にできなければならない」 「完璧に何でもこなすことができるのが俺なんだ」 西村は仕事に詰まるとうつで倒れ込むことがある。 薬がある限り問題はないのだが、2006年初頭に2ヶ月忙しくて薬を病院へと取りに行くことができずに倒れる。廃人状態だったが、短期入院にてどうにか生活を歩むことができるほどになった。 2006年中は休むように、と医者には言われたが三ヶ月ほどで仕事再開。ただし、かなり本数は制限している。2007年からは以前以上に働くと言明している。
[編集] 西村へのバッシング
うつ病で現場を放棄せざるを得なかったことに対することに不信感を抱くスタッフも多い。 2005年末から全く自分も思い描いたモノを作り出せない、というほどのスランプに落ち、リテイク数が異常に伸びたこともあった。それに対しての不信感もあるという。
[編集] 代表作
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