許攸
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許攸(きょゆう、155年-204年)は、後漢末期の武将。字は子遠。
南陽の人。後漢の霊帝の時代、冀州刺史の王分と手を組んで霊帝を廃して合肥侯を皇帝に擁しようと画策したが、失敗して逃亡し、袁紹の参謀となった。しかし先のように朝廷に対してクーデターを画策したこと、金銭に対して強欲なところがあったため、袁紹が許攸の進言を容れることはほとんど無かったと言われている。
200年、官渡の戦いのとき、袁紹に曹操側の本拠・許昌と兵站路を襲撃し、曹軍の死命を制する策略を進言したが受け入れられなかったため、袁紹のもとで出世することができないことを感じて曹操に寝返った。そして、曹操に対して淳于瓊が守る袁紹軍の兵糧基地・烏巣の守備が手薄なことを教えて、そこに奇襲をかけるように進言する。これが成功して、烏巣は陥落し、淳于瓊は捕らえられた。このとき、曹操は淳于瓊の武勇を惜しんで処刑することをためらったが、彼と仲の悪かった許攸が処刑を進言したため、曹操は殺したと言われている。
この許攸の烏巣攻撃策により、曹操軍の勝利は決定的となった。しかしその功績をいいことに、他の武将たちに対して傲慢に威張り散らした上、曹操と旧知(少年期の親友であったという)であったことからなれなれしい態度を取った。また、自分が曹操に味方しなければ、冀州攻略はできなかったといつも自慢していた。曹操は内心その態度を嫌悪した。袁紹死後、曹操軍が鄴を攻め落とした。許攸は曹操に随行して鄴の東門を通った時、またしても「この男(曹操)はわしを手に入れなかったら、この門を出入りできなかっただろう」と自慢した。この発言を密告され、とうとう曹操に殺害されてしまった。
『三国志演義』では、許攸の自慢を曹操は笑って聞き流したが、腹を立てた許褚に殺害されている。