淳于瓊
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淳于瓊(じゅんう・けい、?-200年)は、後漢末期の武将。字は仲簡。なお、「淳于」が姓で「瓊」が名。淳于は漢人では珍しい「二字姓」の一つ。
後漢の霊帝の時代、西園八校尉の一人として左軍校尉を務めた。霊帝の死後は廃帝弁に仕えたが、董卓の専横が始まると中央から逃れて袁紹配下の武将となる。200年の官渡の戦いのとき、兵糧輸送の任務で烏巣に駐屯していたとき、曹操軍の夜襲を受けた。三国志演義では襲撃を受けたとき、酒に酔っていたために捕虜にされたと記されているが、正史ではそのような記述は一切無く、淳于瓊はよく防戦したが、かなわずに捕らえられたという記述がある。
捕らえられ、鼻を削がれた淳于瓊に曹操が「なぜ君は敗北したのか」と聞くと、 淳于瓊は「勝敗は天に委ねるものである 何を問うことがあるのか」と答えた。 曹操は淳于瓊を帰服させようとしたが、 先に帰服した許攸が「鏡を見る度に淳于瓊は我らに恨みを抱くでしょう」と讒言したため、斬首された。 演義では曹操に手足を斬られて袁紹の陣営に送り返され、激怒した袁紹に斬られた。