賀茂忠行
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賀茂 忠行(かも の ただゆき、生没年不詳。一説には(?~960年?))は、陰陽家。安倍晴明の師として知られる。賀茂江人、もしくは賀茂峯雄の子。
陰陽の術に優れ、時の帝から絶対的な信頼を得た。特に覆物の中身を当てる「射覆」を得意とし、帝の前でそれを披露した事もあった。安倍晴明を見出し、彼に「まるで瓶の水を移すかのように(今昔物語集)」陰陽道の真髄を教えたという。丹波権介・但馬丞を歴任、一説には陰陽頭も歴任したともいうが、確証はない。子に賀茂保憲・慶滋保胤がいる。
[編集] 実績
賀茂忠行は覆物の中身を当てる「射覆」が得意であったといわれ、延喜年間に時の醍醐天皇からこの腕を披露するように命じられた。忠行の目の前には八角形の箱が目の前に出され、これを占った結果は「朱の紐でくくられている水晶の数珠」である事を見事的中させ、「天下に並ぶもの無し」と賞賛されている(今昔物語)。
[編集] 物語に出てくる賀茂忠行
今昔物語集の「安倍晴明忠行に随いて道を習いし語」によれば、ある時忠行が内裏より自邸に帰宅途中、牛車の外にいた供の幼少の安倍晴明に呼び起こされて外を見ると百鬼夜行の一団と遭遇、難を逃れ、それ以降晴明を可愛がったという。
同じく「賀茂忠行、道を子の保憲に伝えし語」では、忠行がある貴人の家にお祓いに行く時、幼いわが子・賀茂保憲が供をするというので連れて行った。無事終わって帰宅途中に保憲が祭壇の前で供え物を食ったり、それで遊んだりしている異形の者を目撃した事を話すと忠行は自分の子のただならぬ能力を予見し保憲に陰陽道を教えたという。
[編集] 陰陽道の歴史における賀茂忠行の存在
陰陽道の歴史において賀茂忠行の存在は、意義が大きい。それまで陰陽寮(陰陽道)の天文道・暦道・陰陽道の三部門はそれぞれ専門家による分業であったが、暦家である賀茂忠行はその職掌を越え、この三つをもすべてを掌握し、陰陽家・賀茂氏を確立した。後にこれが弟子筋の安倍氏との賀茂・安倍二氏による陰陽寮および陰陽道の独占の基礎ともなる。実際、安倍晴明は暦家・賀茂忠行の弟子であるが、天文得業生を経て陰陽師、果ては天文博士に昇進、後には忠行の子・賀茂保憲より天文道宗家を譲られている。
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